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出エジプト記  No. XXV モーセとキリスト


34:1 主はモーセに仰せられた。「前のと同じような二枚の石の板を、切り取れ。わたしは、あなたが砕いたこの前の石の板にあったあのことばを、その石の板の上に書きしるそう。 34:2 朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。 34:3 だれも、あなたといっしょに登ってはならない。また、だれも、山のどこにも姿を見せてはならない。また、羊や牛であっても、その山のふもとで草を食べていてはならない。」 34:4 そこで、モーセは前のと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、主が命じられたとおりに、二枚の石の板を手に持って、シナイ山に登った。 34:5 主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。
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 神様はもう一度モーセにシナイ山に登るように命じます。そして、前に砕いた十戒の石の板の代わりに、モーセ自身が石の板を切り出してくるようにと言われました。
私はいわゆるシナイ山として知られている、エジプトの偽シナイ山で、40センチ四方ぐらいの石の板を持ったことがあります。あの辺の山は赤い花崗岩で出来ていますが、厚さ10センチほどの板状に割れやすくなっています。それはとても重かった記憶があります。本物のシナイ山はどんな石でできているのでしょう。  神様は再びこの山に下ってこられました。
34:6 主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、 34:7 恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」 34:8 モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んで、 34:9 お願いした。「ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民は、うなじのこわい民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように。」 34:10 主は仰せられた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民すべての前で、地のどこにおいても、また、どの国々のうちにおいても、かつてなされたことのない奇しいことを行なおう。あなたとともにいるこの民はみな、主のわざを見るであろう。わたしがあなたとともに行なうことは恐るべきものである。
 神様は約束どおりにモーセの前を通り過ぎられました。この時の、神御自身の宣言は神を表すのに最も端的で完全です。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、 34:7 恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」 恵は千代、裁きは三〜四代。聖書で一代は約40年ですから、それぞれ4000年、120〜160年と計算することも出来ます。しかし、これは詩的な表現ですから、計算することはナンセンスです。要するに恵み深く、裁きに寛容だという意味です。モーセは急いでひれ伏します。そして神様はイスラエルを特別な民として選ばれたことを告げます。
 昔、まだ小学生だった時、天皇陛下が汽車で通るというので、私たちは学校から数キロの道を歩いて線路の側まで行きました。沿線は人の列が絶えることはありませんでした。そして、汽車が目の前に来ると、「礼」と言う声で、全員が頭を下げました。結局、私たちは汽車の車輪だけしか見ることが出来ませんでした。あれは何だったんだろう? あのころはまだ天皇陛下は神様だったのですね。
34:11 わたしがきょう、あなたに命じることを、守れ。見よ。わたしはエモリ人、カナン人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を、あなたの前から追い払う。 34:12 あなたは、注意して、あなたがはいって行くその地の住民と契約を結ばないようにせよ。それがあなたの間で、わなとならないように。 34:13 いや、あなたがたは彼らの祭壇を取りこわし、彼らの石柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒さなければならない。 34:14 あなたはほかの神を拝んではならないからである。その名がねたみである主は、ねたむ神であるから。 34:15 あなたはその地の住民と契約を結んではならない。彼らは神々を慕って、みだらなことをし、自分たちの神々にいけにえをささげ、あなたを招くと、あなたはそのいけにえを食べるようになる。 34:16 あなたがその娘たちをあなたの息子たちにめとるなら、その娘たちが自分たちの神々を慕ってみだらなことをし、あなたの息子たちに、彼らの神々を慕わせてみだらなことをさせるようになる。
 神様がカナンの地の民族を追い払い、時には絶滅するように命じ、決して交わってはならないと厳しく言われたのは、これらの民族の偶像には悪霊の背景があり、また、民族そのものが堕落天使との混血であった場合があるからです。悪霊やサタン礼拝には必ず人間、それも幼児をいけにえとして捧げる儀式がありました。これは現在のアメリカやヨーロッパでは盛んに行われています。私はその事実を知っています。
34:17 あなたは、自分のために鋳物の神々を造ってはならない。 34:18 あなたは、種を入れないパンの祭りを守らなければならない。わたしが命じたように、アビブの月の定められた時に、七日間、種を入れないパンを食べなければならない。あなたがアビブの月にエジプトを出たからである。 34:19 最初に生まれるものは、すべて、わたしのものである。あなたの家畜はみな、初子の雄は、牛も羊もそうである。 34:20 ただし、ろばの初子は羊で贖わなければならない。もし、贖わないなら、その首を折らなければならない。あなたの息子のうち、初子はみな、贖わなければならない。だれも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない。 34:21 あなたは六日間は働き、七日目には休まなければならない。耕作の時も、刈り入れの時にも、休まなければならない。 34:22 小麦の刈り入れの初穂のために七週の祭りを、年の変わり目に収穫祭を、行なわなければならない。 34:23 年に三度、男子はみな、イスラエルの神、主、主の前に出なければならない。 34:24 わたしがあなたの前から、異邦の民を追い出し、あなたの国境を広げるので、あなたが年に三度、あなたの神、主の前に出るために上る間にあなたの地を欲しがる者はだれもいないであろう。 34:25 わたしのいけにえの血を、種を入れたパンに添えて、ささげてはならない。また、過越の祭りのいけにえを朝まで残しておいてはならない。 34:26 あなたの土地から取れる初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。子やぎをその母の乳で煮てはならない。」
 神様はここでもう一度短く律法の復習をされます。最後の一節は、神様の優しさがにじみ出ていますね。このことからユダヤ人は今でも肉料理とミルク製品、例えばアイスクリームなどを一緒に食べません。代わりに豆腐から作ったアイスクリームがあるとか。
34:27 主はモーセに仰せられた。「これらのことばを書きしるせ。わたしはこれらのことばによって、あなたと、またイスラエルと契約を結んだのである。」 34:28 モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。 34:29 それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。 34:30 アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。
 今度の石の板はモーセが刻みました。モーセは神と直接語り合ったので顔の肌が光っていました。すごいですね、神と共にあると言うことは。太陽で日焼けするように、神の臨在は人を変えます。
34:31 モーセが彼らを呼び寄せたとき、アロンと会衆の上に立つ者がみな彼のところに戻って来た。それでモーセは彼らに話しかけた。 34:32 それから後、イスラエル人全部が近寄って来たので、彼は主がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。 34:33 モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいを掛けた。 34:34 モーセが主の前にはいって行って主と話すときには、いつも、外に出るときまで、おおいをはずしていた。そして出て来ると、命じられたことをイスラエル人に告げた。 34:35 イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すためにはいって行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。
これ以後モーセは一生の間覆面をしていました。このことをパウロはこう言っています。
3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。 3:7 もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、 3:8 まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。 3:9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。 3:10 そして、かつて栄光を受けたものは、このばあい、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。 3:11 もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。 3:12 このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。 3:13 そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。 3:14 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。 3:15 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。 3:16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
 この箇所は非常に重大です。ユダヤ人にとって許しがたい冒涜と見えるでしょう。そして、パウロはあえてこのように非常に危険な言葉を書き記しているのです。
 私たちにとって、神に会い、顔が光ったという話は驚くべきことです。しかし、ここに新約聖書の真髄が語られています。パウロはモーセの律法よりも、キリストの福音が優先すると言っているのです。モーセは神との会見によって、顔が光りました。しかし、クリスチャンは聖霊を受けることによって、もっと優れた栄光に輝くのだと言っているのです。私たちは聖霊を受けることによってモーセよりも輝いているのです。
パウロは、モーセは、人を「罪に定める務め」で栄光に輝いたが、キリストは人を「義とする務め」をなさり、彼に従う者はその栄光に輝くと言っています。これは驚くべき言葉です。そして、今、キリスト教会でも、ユダヤ人に気兼ねして、このことを大胆に言う人が少なくなりました。その結果、キリストの福音そのものが、その意義を失いつつあります。そのような人は主の御前に出たとき、恥じ入ることになるでしょう。
モーセは人間の為に十字架に掛からなかったことを覚えましょう。シナイ山よりもゴルゴタの方が天高くそびえているのです。