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出エジプト記  No. XXIV カナンの地へ


33:1 主はモーセに仰せられた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える。』と言った地にここから上って行け。 33:2 わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし、わたしが、カナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、 33:3 乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。わたしは、あなたがたのうちにあっては上らないからである。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。」
33:4 民はこの悪い知らせを聞いて悲しみ痛み、だれひとり、その飾り物を身に着ける者はいなかった。 33:5 主はモーセに、仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたは、うなじのこわい民だ。一時でもあなたがたのうちにあって、上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、あなたがたの飾り物を身から取りはずしなさい。そうすれば、わたしはあなたがたをどうするかを考えよう。」 33:6 それで、イスラエル人はホレブの山以来、その飾り物を取りはずしていた。
 ここで神様はイスラエルにカナンの地へ行くことを再度命じられますが、一緒には行かないと言われました。「ひとりの使い」というのは御使いのことかも知れません。この知らせから、イスラエル人は装飾品を着けなくなりました。「その飾り物」と言う言葉は、祭りなどで着る華やかな衣装と言う意味もあるそうです。
33:7 モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れた所に張り、そしてこれを会見の天幕と呼んでいた。だれでも主に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのであった。 33:8 モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、おのおの自分の天幕の入口に立って、モーセが天幕にはいるまで、彼を見守った。 33:9 モーセが天幕にはいると、雲の柱が降りて来て、天幕の入口に立った。主はモーセと語られた。 33:10 民は、みな、天幕の入口に雲の柱が立つのを見た。民はみな立って、おのおの自分の天幕の入口で伏し拝んだ。
33:11 主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。
 ここに「会見の幕屋」と言う言葉が出てきます。これは天幕の神殿、幕屋と混同されますが、モーセが神様と出会うために建てた天幕のことです。彼がその天幕に入ると、「雲の柱」が降りてきたとあります。何と言う、身近な神の臨在! 目の前に神がこられたことが判るのですから、すごいことですね。
33:12 さて、モーセは主に申し上げた。「ご覧ください。あなたは私に、『この民を連れて上れ。』と仰せになります。しかし、だれを私といっしょに遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身で、『わたしは、あなたを名ざして選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている。』と仰せになりました。 33:13 今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください。」 33:14 すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」 33:15 それでモーセは申し上げた。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。 33:16 私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」
 前のところで、「もう一緒に行かない」と言われた神様は、モーセの切実な求めに応じて「一緒に行く」と言われました。モーセは神の御意志を翻(ひるがえ)らせたのです! 不思議ですね。神が人の言葉で御自身の決定を変えるとは。これはモーセと言う人物に対する神の絶大な信頼を表現しているのです。人はこれほど神と近しくなれるものなのですね。ソドム、ゴモラに対する神の裁きを止めようとした、アブラハムのことも思い出されます。神様は私たちと遠く離れておいでになるのではなく、近くに居られ、近づく者を待っておられるのです。
33:17 主はモーセに仰せられた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。」 33:18 すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」 33:19 主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」 33:20 また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」 33:21 また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。 33:22 わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。 33:23 わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」
ついにモーセは神様に「会いたい」と言います。これは大胆な言葉です。聖書は、人は神に会うことは出来ないと言っています。
(神は)ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。 Tテモテ6:16
 しかし、神様はモーセには御自分を現すことを良しとされました。ただし、後姿だけ。モーセがこの時に入ったと思われる岩の裂け目が、ラウズ山にはあるということです。
 ここでモーセが見たのは、神の御姿ではなく、その栄光、尊厳、力といった神の属性だったのでしょう。また、この神は三位一体の御子ではなく、神の全てと言えるのだと思います。厳粛な時です。しかし、間もなく私たちは、御国でこの方にお会いできるでしょう。


特別寄稿  小沢一郎氏の発言についての私の見解を機関紙SECONDCOMINGから転載します。

キリスト教は排他的、独善の宗教か
小沢一郎氏が「キリスト教は排他的、独善の宗教である」と言われたこと、その通りだと申し上げたい。そしてお聞きする、もし日本に天皇が二人も三人もいたらどうでしょうかと。天皇はお一人で無ければならないのではないですかと。もし二人も三人もいたら困ったことになりませんかと。富士山が三つも四つもあったら、今のように貴い山だろうか。
聖書の神は日本の神々のように部分々々を受け持つ限定的な能力者ではない。聖書の神は全能者(何でもできること。出来ないことはないこと。)である。全能と言うことは唯一であると言うことである。もし全能者が幾人もいたら、互いをどうすることも出来ないから、全能ではなくなる。
あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。出エジプト20:3
神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。Tテモテ2:5
これは聖書の宗教の大原則であって、この点では妥協のしようはない。小沢氏の言葉はすでに古代ローマで語られたことである。その結果、大迫害が起こり、数万人のクリスチャンが殉教した。松脂を塗られて燃え上がるクリスチャンの明かりでローマの夜は明るくなったという。国家の支配者たる人の口から、このような言葉が発せられたら、我々はそれに続く迫害と殉教を意識する。それはクリスチャンの宿命であるから。
ただ、誤解していただきたくないのが、現今のアメリカの政府の政策がキリスト教精神に基づいているという偽りである。アメリカの上層部はサタニストであるから、キリスト教の評判を貶めるためにきちがい染みた政策を行っているだけのことである。
ユダヤ教もイスラム教も、またかつての神道も、「おぎゃあ」と生まれてくればその信徒である。しかし、キリスト教とは全く個人が自覚して選択する宗教である。この世にキリスト教の国家などというものはあり得ない。団体として存在しているものも、参加するのは自由であり、不参加も自由である。神の事柄に関しては絶対に妥協できないが、人間関係に関してはキリスト教精神とは次の言葉に代表される。
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。Tコリント13:4〜7