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出エジプト記 No. XXII その他の規定


30章から31章はあまりにも詳細に過ぎ、またほとんど解説を要しないと思われて、実は中々取り掛かれませんでした。それぞれに深い意味があるのでしょうが、我々の日常生活にはあまり影響しないところだと思いますので、大づかみに学びましょう。

香の壇

  長さ幅は45cm 高さは90cmの台でやはり純金で覆いました。これは至聖所の中で用いました。興味深いことは聖書の記述では至聖所の中と外の両方にでてくることです。その意味はわかりません。ここで朝晩に「常供の香のささげ物」つまり絶やすことなく香が焚かれていました。これは今で言うなら早朝の祈りと夕べの祈りでしょうか。この香壇は香を焚くためのものですが、年に一度だけ罪の贖いのために血が塗られました。

人口調査

  人口調査のとき、一種の税金を払いました。20歳以上の男子(恐らく)一律に一人半シェケルです。この値段を現在に換算することは困難ですが、貧しい人々でも払える額だったことは確かです。これは銀で払われ「贖いの銀」と呼ばれました。それは幕屋の維持のために使われました。

洗盤

  これは聖所の外の庭に置かれました。祭司が体を清めるために使われました。この絵のように単純なものだったかどうかは   判りません、また色も青銅色で金ではありません。

注ぎ油、他

  次に祭司に注ぐ油、色々な道具類に至るまで細かく規定されていました。興味深いのは特にこの香油に関しては同じものを造ってはならないと厳重に警告されていることです。

 次に31章では「フルの子であるウリの子ベツァルエル」という人物がこの全ての製作主任として指名されました。余程、工芸に優れた才能を持っていたのですね。こういう風に自分の得意分野で神に奉仕できるのだということを覚えたいものです。

安息日

 安息日は神様が世界を創造されたとき七日目に休まれたことを記念するものです。これはイスラエル人にとって最も重要な規定でした。「ユダヤ人が安息日を守ったのではなく、安息日がユダヤ人を守ったのだ」と言われるほどです。イスラエルに行くとこれが良くわかります。エルサレムの町外れには安息日にそこを越えてはならないと言うポールが立っています。写真を撮ろうとするとどこからか誰かがやってきて、警告します。シャッターを押すことが仕事になると言うのです。イスラエル人は安息日には戦争さえ出来ないので20世紀でさえ負けることがありました。

石の板

 これらの律法は「神の指で書かれた」石の板に書かれていたとあります。もしこれがそのまま残されていたら途方もない宝物になったでしょう。しかし、イスラエルが犯した罪によって、モーセが割ってしまい永遠に失われました。それは石の板そのものが偶像になる危険を回避するためでもあったのでしょう。
この後に、その事件が起こるのですが、それは詳細に学ぶことにしますので今日はここまでにしましょう。
ところで、「神の指で書かれた」という何気ない一節が、福音書の次の御言葉を思い出 させます。
イエスはオリーブ山に行かれた。そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」ヨハネ8:1〜11
 ここは姦淫の女が連れてこられて(何で女だけなのか不思議ですが)人々から譴責される場 面で、イエス様が取られた行動です。イエス様は、何を書いておられたのでしょうか。
 モーセは神と顔と顔を合わせて会ったと書かれています。これは神とそこまで親しく出 会ったと言う意味ではあるのでしょうが、三位一体の御子なるイエス様と会ったとも言え るでしょう。ただ、旧約聖書では三位一体は明確に語られていないので、ほとんどの場合、 「神」と書かれています。たとえばヤコブと相撲を取ったという場合父なる神とは考えら れません。そのことから、「神の指で書かれた」とはイエス様の指であると考えられます。 さて、律法の7番目は「姦淫してはならない」でした。イエス様は遠いモーセとの出会いの時を思い出して、地面にこの律法を書いていたのではないでしょうか。これは私だけの考えではなく。他にもそう考える解説者は多くいます。イエス様の次の言葉はこうでした。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
 ここに律法と言うものの性質が良く表されていると思います。律法ではこういう場合石を投げて殺すべきだと書かれているのです。しかし、人間個人々々を考えてみるならば、罪のないものなど一人もいないのです。ここに集まって女の姦淫を攻め立てている男たちの中で姦淫を犯していないものが一人もいなかったとは考えられません。姦淫の罪だけではなく、別の罪を犯しているかもしれません。他人を裁くものは自分も裁かれるのです。人を裁くことが出来るのは究極においては神御自身のみです。しかし、それでは社会の安定が保たれないので、裁判官がいて裁きを行うように神様は定められたのです。いわば、裁判官は神の代理人としてその職務に当たっているのであって、自分の権限でやっているのではないのです。かつて日本の最高裁判所にいたクリスチャンの裁判官がそういっていたように記憶していますが、正確な引用は出来ません。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。マタイ7:2