ホームページ・メッセージ091018           小 石  泉

王の礼服


イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」マタイ22:1〜14
 この箇所は今までに何度もお話してきた所ですが、先日、教会の若い姉妹と話したとき、その意味を知らなかったので、もう一度、若い人々に説明する必要を感じました。
 ここはイエス様が語られたたとえ話ですが、ある王が王子のための結婚式を開いたとは神様の与えてください救いと永遠の命を意味していると考えられます。折角、尊い十字架の贖いを与えて、罪の許しと永遠の命を与えるというのに、招いた人々、一義的にはイスラエル人は拒絶するのです。そこで「大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい」と命じられました。これは福音が世界中の異邦人に伝えられることを表しています。
 ところで、その客の中に婚礼の礼服を着ていない人がいました。これが問題です。昔、ある青年は「こんな話はない、彼は貧しくて礼服が買えなかったんだ」と私に言いました。なるほど、このまま読んだらその通りですね。しかし、実は当時の習慣として、王に謁見する人は入り口で礼服を貸し与えられるのです。この人は、その礼服を借りることをしませんでした。自分の服の方が良いと思ったからです。これは王に対する侮辱です。
 神の前に出るとき、人は全く清くなければなりません。一点のシミもあってはなりません。神は100%清いお方ですから、たとえどんな小さな罪や汚れでも神の国に入れてはならないのです。そんなことは人間には不可能です。神に愛されたダビデはこう歌っています。
ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。詩篇51:5
これはダビデの母が特別罪深い人だったという意味ではなく、人間はみなそうだという意味です。人は人として生まれたとき、罪の遺伝子をアダムとエバから受け継いでいます。だからどんな子供でも誰も教えなくても罪を知ります。
 そこで神様は人間に罪を教えるためにモーセを通して律法を与えられました。神の国は正しい基準によって運営される“法治国家”なのです。その時々の思いつきで司法が決定するわけではありません。その結果、人間は律法を守ることが出来ないことが判りました。そこで神様は100%正しい方を世界に送られました。この方が、人間の罪の代償を払ってくださいました。
あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。コロサイ書2:13〜14
 このイエスキリストの十字架の血は、義の衣として私たちに与えられます。これが礼服なのです。もしこの礼服を着ないなら、私たちは100%清いものではありません。
 何度も話しますが、義という言葉を見てください、羊の下に我と書きます。昔イスラエル人は過ぎ越しの祭りの時に羊を殺してその血を家の門と鴨居に塗りました。この家の前を神の裁きは過ぎ越しました。なぜならその羊の流された血によって彼らは義と認められたからです。これはモーセの幕屋でも契約の箱の上に流される血として表されました。このことからこの漢字はイスラエル・ユダヤ人が作ったとしか考えられません。しかし、動物の羊の血は一年間だけ有効でしたが、本当の“神の小羊”の血は永遠に有効です。
その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。ヨハネ1:29
 これがキリスト教です。キリスト教とは徹頭徹尾“他力本願”なのです。人間の努力では救われないのです。どんなに努力しても、それは幼子が泥水でハンカチを洗うようなものです。よく誤解されるのは次の御言葉です。
「姦淫してはならない。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。マタイ5:27〜28
この御言葉から、キリスト教ってなんて厳しい教えなんだろうという誤解が生まれました。しかし、ここはイエス様が自分を正しい、義人だとするユダヤ人に向かって「神の基準はこんなに厳しいのだから正しい者などいない」ということを伝えた箇所です。
 人間が自分の努力によって救われるなら、イエス様は十字架にお架かりになる必要は無かったのです。聖書はこう言っています。
「義人はいない。ひとりもいない」。ローマ3:10
「ひとりもいない」のです。パウロ先生はこう言っています。
人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。ローマ3:28
 これがキリスト教の基本です。では私たちはどう生きても良いのかというと、そうではありません。
花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」黙示録19:8
 救われるために正しい行いをしても無駄です。そうではなく、救われたから正しく生きようとするのです。救われるために努力するのではなく、救われたから努力するのです。しかし、決して十分には出来ないものです。だからと言って救いが無効になることはありません。救いは信じたもの全てに与えられて無くなることはありません。ただし、例外はあります。
もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ヘブル10:26
 皇太子のお嫁さんが一般人から選ばれると皇太子妃になり、いずれ皇后になります。その地位が失われることはありませんが、その地位にふさわしくなるためには大変な思いをされるでしょう。同じようにクリスチャンは救われた後、それにふさわしく生きることが大変です。
私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。Uコリント5:1〜4
 幕屋というのは私たちの生まれながらの体と心です。与えられた義の衣を着ることは生まれつきの人間には苦しいときもあります。私たちは重荷を負って、うめいています。しかし、いつかそれは命に飲まれてしまうのです。
もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。ローマ8:10
人が義であるかどうかは、基本的に霊の問題なのです。人間は肉体と魂(心)と霊から出来ていると聖書は教えています。この内、肉体と魂を聖書は“肉”と呼んでいます。からだという場合も心も含まれるのです。心を含めて肉が清められるのには時間がかかります。しかし、どんな時でも霊は救われているのです。与えられた礼服を“霊”に着続けましょう。それが“肉体と心”も飲み込んでしまうまで。