ホームページ・メッセージ091004           小 石  泉

聖書と科学


 19世紀から20世紀に掛けて、科学は森羅万象を説明できるかのように主張し、聖書は神話だ、現実ではないと辱めました。ところが、興味深いことに、20世紀の後半から21世紀になって、科学は聖書を追認するような方向に向かっています。私の感想から言えば、そんなことは当たり前のことで、科学は神の創られた世界を調べているのですから、結果として神を認めるに至ることは当然なのです。
 長い間、世界は、宇宙は永遠から永遠まで連綿として続き、初めも無く終わりも無いと信じられてきました。特に日本は仏教の輪廻転生の思想に立ち、宇宙の始まりなど考えても見ませんでした。もっとも昔の神話には国造りの話がありますから、一部には世界の始まりについて関心があったのかもしれません。

 20世紀にアインシュタインが相対性理論を発表しました。この理論から自然界の多くのなぞが解明され原爆が生まれました。考えてみるとアインシュタインはすごい人だったのですね。ところがその後の多くの研究者によって、この相対性理論から世界には始まりがあったという説が導き出されました。しかし、アインシュタインはこの説に猛烈に反対しました。無神論者の彼は神の存在を認めかねないこの説に、非常な嫌悪感を抱いたのです。しかし、その後の研究と望遠鏡の発達によってますます宇宙には始まりがあったという事実が証明されてきました。そのために最後にはアインシュタインもこの説を認めないわけには行きませんでした。
科学者たちが注目したのは、望遠鏡の発達によって遠い星が見えるようになり、その距離が計算できるようになると(これがまたすごい努力によってですが)奇妙なことが分かってきました。それは星々が皆遠ざかっているということでした。遠方の星ほど赤い光を出しているのです。それは近づく波長は早くなり、遠ざかる波長は短くなるという、ドップラー効果として知られる波の特長によって分かったのです。このことから、時間を逆にたどると、宇宙は約百億年前に、ある一点から始まったという結論になりました。宇宙はあるとき突然爆発を始めました。これを科学者たちはビッグバンと名づけました。宇宙の中で爆発が起こったのではなく、爆発によって宇宙が出来て行ったのです。(しかし、今でも激しく反対している人々はいます。このことに関しては新潮社刊、サイモン・シン著の「ビッグバン宇宙論」という本をぜひお読みください。)

宇宙はあるとき突然爆発を始めました。多く科学者が研究と計算によってその事を発表しました。特に聖職者だった物理学者ルメートルは大きな働きをしています。ガモフという学者は「その時、光が宇宙にあふれ出た、それはあらゆる要素を含んだ光のスープのようだった」と言っています。 聖書は世界には始まりがあったと言っています。それも光からです。
初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。 創世記1:1〜3
日本人の宗教観は、宇宙は永遠不滅で始めもなく終わりもないというものです。版画家の棟方志功は「宇宙には始まりも終わりもないよ、未来永劫不変だよ」と言っていましたが、これは日本人の宗教観を代表するものでしょう。しかし、科学が宇宙には始まりがあるという結論に至ったので、その宗教観は変更されなければなりません。

次に科学者はDNAを発見しました。DNAは動物植物の全ての生物に存在します。それは1000分の5ミリほどの大きさの細胞の中にあり、引き伸ばすと2メートルにもなる複雑なたんぱく質です。DNAはたった4つの要素(塩基)から出来ています。その4つの塩基の配列によって人間になったり、アミーバになったり、バラになったり、杉の木になったりします。一つの塩基が違うだけで全く別の生物になります。それはあまりにも複雑で、科学者たちはついに「例え、何百億年かかっても決して自然には出来ない」と言う結論に達しました。その結果、彼らはInnterigence Designという言葉を考え出しました。「何か賢い者が作った」ということです! 賢い者? 素直に神様といえば良いのに、それでも信じたくないのでしょうか。
その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。2:7〜8
そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。2:21〜22
 私は昔から、この“あばら骨”がDNAでないかと思ってきました。人間の染色体を構成するDNAは、男が46、女が47です。それは“あばら骨”を一本とられたからです・・・・?  とにかく、ここでも科学は神の創造、聖書の記述の正しさを証明してしまったのです。考えてみれば当たり前のことです。科学者は神様が創った世界を調べているのですから、結果的に神様が創造者だったと言う結論に達するのは当然過ぎるほど当然です。先進の科学において、進化論は完全に敗北しています。いまだに日本の教科書では正しいとされていますが。

この女性はリサ・ランドールと言います。彼女は物理学者で「異次元は存在する」と言う本がNHK出版から出ています。次に彼女のプロフィールを引用します。
「2007年スイスのジュネーブ郊外に、超高エネルギーの粒子衝突型加速器の建設が進められている。(LHC)実験結果次第では異次元の世界の存在が証明されるかもしれない。高速の粒子が衝突して粉々になった破片はある確立で姿を消すことが予想されている。もし粒子が姿を消したことが確認された場合、姿を消した先が異次元の世界であると考えられる。 きっかけは、原子核を構成する素粒子の中に、この世界から姿を消すものがあるという矛盾にぶつかり5次元の研究を始めた。さまざまなモデルをつくったが、異次元世界がわたしたちの3次元空間をとりまいく巨大な時空であるということを理論上、立証した。これまでも、5次元の考えはあったが、微細で見えないものと考えられてきたが、ランドール博士の5次元は、巨大で見えないもの、無限の広がりをもつ可能性がある。」
 この記事は数年前のものなのでその実験が行われたかどうか私は知りません。しかし、彼女の研究の結果、私たちが見える世界ではなく見えない世界が存在すると言うことが科学的に推論され、証明されつつあると言うことは何と驚くべきことでしょうか!
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからですUコリント4:18
信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。ヘブル11:3
 聖書はここでも真実で正しいことが証明されつつあるのです。 イエス様は異次元世界を明確に語っておられます。
「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」ルカ23:33〜43
 時は午後の3時を過ぎたころです。ゴルゴタの丘の前に立てられた3本の十字架に、イエス様と二人の強盗が掛けられていました。十字架はローマの刑罰で、十字架に釘付けされた犯罪人は、そのまま衰弱して死ぬまで放っておかれます。(この場合は翌日が安息日だったので途中で足を折り殺されたが、イエス様はすでに死んでおられたので足は折られなかった。)
 強盗の一人はイエスさまをののしっていましたが、もう一人は自分の罪を認め、悔い改めてイエス様に許しを求めました。それに対してイエス様は「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われています。
 イスラエルでは一日は日没で終わり、夜から翌日が始まります。ですからイエス様が「今日」と言われたのは、ほんの1〜2時間のことです。パラダイスは私たちから見るなら異次元です。それを霊的世界と呼ぶことも出来るでしょう。イエス様は異次元を知っておられました。そして、そこに強盗は行くと言われました。それも「私と共に」。
 例え、異次元が沢山あり、そこに行くことが出来ても、神と主イエスが居られなかったらこの世と何の変わりもありません。空しい空間に過ぎません。そして、主が共におられるところならどこでもパラダイスなのです。

 いずれにしても、こうして聖書の真理が科学によって証明される時代になったのかと思うと感慨無量ですね。