ホームページ・メッセージ090906           小 石  泉

神に至る道


 私の住むマンション(アパート?)の階段にはよく蝉が落ちています。コンクリートの隔壁にぶつかってひっくりかえって起きられなくなり、そのまま死んでしまうのです。しかし、時々はまだ生きている者も居ます。先日も転がっているので拾い上げるとジーと鳴きました。空に放してやると元気に飛んでいきました。私は何だか嬉しくなりました。そして、神様が天地を創造され、御創りになった鳥や獣や人間が、手元から離れて飛んで行ったり、動き始めるのを見たとき、やはりこんな風に楽しまれたのだろうかと思いました。

 神様を知る道は、二通りあります。一つは自然です。もう一つは聖書です。前者を自然啓示、後者を特別啓示と呼びます。ところが人間の中にはそれだけでは満足できないという人がたくさん居ることを知りました。彼らは神の領域、霊的世界を聖書やキリスト教信仰によらないで知りたいと思うのです。

 昔から、多くの人々はこれらの霊的な領域を探索したいと願ってきました。それで、ある人々は長く苦しい修行や難行苦行によって自分を苦しめ、その結果、幻覚や幻視によって霊的な世界を見たと言いました。また、未開な民族の(この言葉が適切かどうかは問題ですが)シャーマンたちは、激しい踊りや、太鼓の音、毒草から取り出した樹液などによってやはり、こういうトランス状態に入ることが出来ました。さらに、もっと簡単に麻薬や覚醒剤を使って同じ状況になることが出来るようです。

 これらの状態で見たこの世ならぬ世界は、今までは幻覚や幻視と思われてきましたが、最近になって多くの人々が実際に体験し、分かったことは、これらが実は本当に霊的世界、異次元を見たり、行ったりする場合があるのだということです。麻薬や覚醒剤でも、単なる「疲れが取れる」というような効力だけではなく、こういう非日常の世界を見たり、行ったりすることが大きな魅力となっているようです。もちろん、ここに言う霊的世界とは神様のおられる天ではなく、私たちから見るなら、悪霊の世界であるのです。

 私は、これまではごく一部の人々が非常な努力で到達したこれらの世界を、最近は実に簡単に手に入れることが出来ることを知りました。それこそ通信販売で手に入れ、さほど修行や努力なしで簡単にこの道に入れる方法が開発されているのです。これは恐るべき事態です。その一つは音響を通して行われます。

 これらの方法は宗教でもなく、特段の決意や苦痛もなく、まるでサウナにでも入るか英会話でも習うように気軽に体験できるのです。そして、学習の段階を登ることによって、最後には神に到達すると言います。これは実に危険な状況です。とりわけ、それらが単に思い込みや幻覚幻視ではなく、本当に霊界を見ているらしいのが心配です。さらにそのトレーニングの究極の段階では神に至るというのですから問題です。

 エデンの園でエバがサタンに誘惑されたとき、
そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」創世記3:4〜:5  と、言っています。それ以来「神のようになる」ということが人類の一部の人々の願いでした。神に至る道は聖書によるならば唯一つです。
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」ヨハネ14:6

 神のみもとに行く道はイエス・キリスト以外にはないと聖書は言っています。しかし、これらの人々の関心は、へりくだって、神のみもとに行くというより、好奇心から神を見たいと思い、神と肩を並べることを願うというように聞こえるのです。あたかもサタンが神と同じ位置に居たいと願ったかのようです。
あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。』イザヤ14:13

 彼らには罪の認識はありません。悔い改めも贖いも必要ないのです。神の御子の十字架の悩みはナンセンスです。これはサタンの発想以外の何物でもありません。そして、この学習に入ると、実際に色々なことが起こり、利益が得られるといいます。人生観が変わるといいます。しかし、その終わりはどうなるのでしょうか。まだ、その報告には接していませんが、神は死んだといい、超人思想を主張したが、晩年を狂気の中に苦しみもだえたニーチェのことが思われてなりません。これらの人々の行く末はサタンに似ることになるでしょう。
天使長ヘレル(ルシファー)がサタンになった原因は高慢でした。
あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。エゼキエル28:17
これに反して、キリストの御性質は謙遜でした。
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。ピリピ2:6 〜9(口語訳)

 また、神の御性質は愛です。神は愛である。Tヨハネ4:8
これらの人々はサタンの性質に似たものとなって行くでしょう。高慢で愛が無く、人を人とも思わず、思いやりも、優しさも無く、自己中心な性質を持つことになるでしょう。それがサタンに似る道だからです。

 天国への道は一つしかありません。それは狭くて細い道です。 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。マタイ7:13

 好奇心や興味本位で麻薬や覚醒剤でも試すかのように、新しい霊感やスピリチュアルな体験を楽しんでいるうちに、気がついてみたら地獄の門の前に立っていたということになりませんように。いや、確かにそうなるでしょう。

 彼らが試しているのは、新しい麻薬、新しい霊の解放、新しい霊の世界への近道のようですが、それはサタンが準備した巧妙なわなです。私たちを正しい永遠の国に導くのは、キリストによる古い道です。それ以外にはありません。
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。使徒4:12