ホームページ・メッセージ090816 小 石 泉
救われるって何だ?
救われる? それって何? 日本でキリストを伝えていて、どうしても越えられない壁を感じるのは、多くの人々が“救われる必要”を感じていないことです。
私たちが非常に大切に思っている御言葉に次のようなものがあります。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」使徒行伝16:31(新改訳)
これは「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」16:30 と言う問いに対する答えとして語られた言葉です。ところが救われる必要を感じていない人にとって、救いはナンセンスです。そこに無理矢理、救われなさいと言うのですから、ますます「そんなものは要らない」ということになります。
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」使徒4:2
これもキリスト教では有名な言葉ですが、救いを求めない人にとってやはりナンセンスです。ユダヤ教もキリスト教も“救われる”ことを前提としている宗教です。しかし、日本人にとって “救われる必要”は無いのですから、実に奇妙な宗教に映るのでしょう。もっとも、日本だけでなく、今ではほとんどの欧米諸国でも同じ様になりました。
本来、人間は自分の存在自体に疑問を感じるはずなのです。何故、生まれたのか。どう生きればいいのか。そして、どこに行くのか。ジョン・バンヤンと言う人の書いた「天路歴程」と言う本の中で、主人公はこれらのことに悩み、神の怒りが、今にも天から降ってくるかのように思い悩みますが、現代社会ではそんなことを考えること自体、奇妙な精神状態だと思われるに違いありません。
それで居て、人間は生きることに意味を見出せず、世界の問題も自分の問題も解決できず、死ぬことを怖れているのです。意味の分からない人生を生きるなんて、私には信じられません! 私は死ぬことを心から待ち望んでいます。
最近の教会の傾向として、これらの根本的な問題を避けて、人々が気に入るような話をすることが多く見られます。曰く、可能性思考、幸福への道、病の癒し、精神の解放。教会の講壇から「救われなさい」という声は聞こえて来ません。言っても無駄だからでしょうか。聞く耳を持たない人に語っても仕方が無いからでしょうか。
私の仲間で、かつてさる大暴力団にいて、その後、私の本を通して救われた青年が居ます。彼はある有名なテレビ伝道者のメッセージを聞いて「先生、あれって会社なんかでやる能力開発セミナーみたいなもんだな」と言いました。そこには「悔い改めも罪からの救いも」語られていなかったのでしょう。これは現代の伝道の大きな流れとなっています。
人は何から救われなければならないのでしょうか。今となっては、評判の悪い結論ですが、死と滅びと神の裁きです。ヘブル書9:27にはこうあります。
「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように」
ジョン・レノンは「イマジン」という歌でこう歌っています。
想像してごらん、天国が無いことを そんなに難しいことじゃあない
地獄なんてない 僕らの上には空があるだけさ
想像してごらん人々がみんな 今日を生きていることを
想像してごらん国が無いことを そうすることは大変なことじゃあない
国のために殺すことも死ぬことも無いんだ 宗教だってないことを
想像してごらん 人々がみんな 平和に生きていることを
想像してごらん 個人財産がないことを
貪欲も飢餓も必要ないことが想像できるかい
人はみんなが兄弟なんだ(私訳)
これは日本人がだれでも共感する歌でしょう。そして、最近では一神教の弊害と言うことが非常にしばしば語られるようになりました。地獄、宗教、それらは人間を脅かして、束縛し、精神的な監獄に入れるための偏狭な精神なのだと。そんな考えの人々からは、私たちは実に偏屈で困った存在に見えることでしょう。これは、今後キリスト教迫害の大きな要素となるのではないかと私は心配しています。
ジョン・レノンが否定した天国と地獄はあるのでしょうか。あるということも無いということも、断定は出来ないにしても、少なくとも50(フィフテイ)対50(フィフテイ)です。50%の確率は高い確率です。
何故、神は裁かれるのでしょうか。パウロは日本人にはすんなり納得できないにしても、人の正しいあり方を言っています。
なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。ローマ1:19〜25
神は居ないという人々が、ジョン・レノンの言うような世界を作ってこなかったことは確かです。神を否定した共産主義の国々で、どれほど恐ろしい殺戮が行われたことか。(これについてはリチャード・ウオンブランド師の「マルクスとサタン」日本語訳「マルクスの超素顔」徳間書店刊に詳しく載っています。御希望の方は私まで。)
人は正しいものではありません。本来ならば神の前に恐れおののいて救いを求めるべきものなのです。人は正しく生きる力を持ちません。パウロでさえこう言っています。
私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。ローマ7:15
私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。19
私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の体から、私を救い出してくれるのでしょうか。24
これが本来的な人間のあり方なのです。ここに救いを求める叫びがあります。しかし、一般的には、このような段階まで見通すことが出来ないので、あいまいなままで生き続けているのです。
神の裁きについて私にはある思い出があります。かなり前になりますが、ある時、教会の電話が鳴りました。年配の男性の声で「神はどんな人でも裁くのですが」と言うのです。私は、その方は神が誰でも裁くのは理不尽だと言いたいのだと思いました。私はこう答えました、「神様はあなたが納得できないようなことはされませんよ」。その方は「分かりました」と言って電話を切られました。
神の裁きは人が抗議する余地が無いほど完全です。誰でもこのように言うはずです。
また私は、祭壇がこう言うのを聞いた。「しかり。主よ。万物の支配者である神よ。あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。」黙示録16:7
その他、多くのリバイバル集会などで、聖霊が働かれて、色々な奇跡が起こるというケースがあります。倒れる、癒される、金歯が入る、霊の解放、金粉が舞う!!!
主イエスは聖霊が来るとそういうことが起こると言われたでしょうか。
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。ヨハネ16:7〜16:8
聖霊がくると「罪と義とさばきとについて、世の人の目を開く」(口語訳)のであって、そんな馬鹿馬鹿しい見世物を見せるとは言われませんでした。もし、今、主が来られたら「いい加減にしなさい」と言われるのではないでしょうか。
確かに、今「救われなさい」と直接言うことは難しいことは判ります。「悔い改めなさい」と叫ぶことが出来たらどんなに良いでしょうか。結局、今、教会の最も苦心しているところは、そこに至るまでの緩衝地帯として、音楽や、可能性思考や、癒しなど、色々と工夫しているのでしょう。私はそれを終末論にしました。エホバの証人が誤った終末論で成功しているのを見たからです。私たちが正しい終末論を語るべきだと思いました。
しかし、本当に伝えなければならないのは救いと悔い改めなのです。本末転倒してはなりません。ここはしっかりと押さえて置かなければなりません。