ホームページ・メッセージ090614 小 石 泉
イエス・キリストを科学する?
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。ピリピ2:611
私は科学や数学は全く苦手でほとんど理解できません。それなのにこのようなタイトルでメッセージを書こうと思います。少しでも科学的な知識のある方から見たら笑止千万なことかもしれませんが、主イエスを知る一つの入り口を開く試みをして見ようと思います。
数学の世界で、次元という言葉があります。一次元は点、二次元は縦横(たてよこ)の世界、三次元はそれに高さが加わったもの、四次元はさらに時間が加わったものと記憶しています。私たちは三次元空間の生物で、二次元はスクリーンに映った映像のような世界だということです。二次元の生物には三次元の生物は見えず、三次元の生物には四次元の生物は見えないということです。天使は四次元空間の生物ということが出来るかもしれません。神は次元そのものを創造された方ですから、ある次元の存在ということは失礼に当たると思いますが、仮に五次元の存在とさせていただきましょう。 神はあまりにも大きくて、人間には見えません。
神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。ほまれと永遠の支配とが、神にあるように、アァメン。Tテモテ6:16
人間にご自身を現すためには、神は三次元空間に降りてこなければなりませんでした。冒頭の御言葉はそのことを表しています。キリストは目に見えない神の、目に見える現われでした。また、キリストが多くの次元を通り抜けて三次元の世界と行き来されたことを聖書は語っています。
さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。ヘブル4:14(新改訳)
神の御子は神ご自身を人に現すために、かたちを採られたのです。
御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。コロサイ1:15
この「先だって生まれた」という訳は適切なものでしょうか。英語ではfirstbornと言う言葉が使われています。長男と言う意味ですが、生まれたという人間的な表現を使わなければならなかったのでしょう。しかし、原語のギリシャ語のprototokosは神から“発生した”と言う意味のような気がします。
別の言い方をすれば、キリストは暗い部屋に雨戸の隙間から差し込む日光のようなものです。それは確かに太陽から出た、太陽の光なのです。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。(中略)そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。ヨハネ1:1〜14

神様は宇宙を創造された方ですから宇宙よりも大きく、どんなに目を凝らしても見える方ではありません。そこで私たちが見えるように、三次元の形をとって現れてくださいました。しかし、全く五次元の要素を捨てられたのではなく、見えるように姿を変えて来られたのです。キリストは神であり人でありました。「言葉は神であった」とヨハネは言っています。キリストが、
わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。ヨハネ14:6
と、言われたとき、自分は三次元のあなた方と五次元の神とをつなぐ唯一の道であるといわれたのです。ペテロもこう言っています。
この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。使徒4:12
神が五次元の方であり、私たちが三次元の者であるとしても、実はそれだけではない、大きな障害がありました。それは人間が神の義にふさわしいものではないということです。神の光は時にはレントゲンの]線のようなものです。
というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。ヘブル4:12
私たちは神の前に隠れることは出来ません。全てあからさまです。たとえ実際に罪を犯すことが無くとも、動機において邪悪で、心の中では罪を犯しているのです。ですからキリストは、
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。マタイ5:28
と言っておられますが、これはその事を言っているのです。神のレントゲンのような目で私たちの内面が見られるとき、正しい者は一人も居ないのです。
義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。
すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。ローマ3:10〜12
この絶望的な人間を救うために、キリストは十字架にかかるためにこの三次元の世界に来てくださったのです。そして御自分の血をもって、私たちの身代わりの死をもって、贖いを成し遂げてくださいました。十字架は全ての次元を貫く救いの柱です。そして、その業を終えられてから再び、栄光の御座につかれました。
御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。ヘブル1:3
さて、聖書はクリスチャンの集合体、教会はキリストの体だと言っています。
この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。エペソ1:23
教会は三次元を超えたものと言えるでしょう。何とすごい表現でしょうか。こんな醜い私たちが、教会として集合するとき、変貌するのです。バッタが単体では普通の状態なのに、集合して群生体となると体そのものが変化して強力になり飛翔力も格段に向上するように、私たちも集合し群生体となる時、想像を絶する美しさ清さとなるのです。
黙示録にもそれがはっきり現れています。
ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。 わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである。19:6〜8
わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。21:1〜2
教会はついに三次元の制約を解かれて、神と同じ次元にまで高められます。その条件は清くなることです。それはキリストの十字架の血によってだけ成しとげられることです。
キリストは神であり、神の目に見える現われです。この方を見るとき、私たちは神を見ることが出来、神と共に永遠に生きることが出来るのです。