ホームページ・メッセージ090517           小 石  泉

基礎をしっかり


 私がJALに勤めたとき、どうしても英文タイプの技能が必要でした。しかし、当時の私は貧しくて(今もあまり変わりませんが)タイプを買うこともタイプの学校に通うことも出来ませんでした。それで私は毎日、一時間早く出社して、手に入れた教則本をたよりに会社のタイプライターで練習をしました。jjj、fff、jhj、fgf、毎日、毎日、その繰り返しです。やがて、1ヶ月もするとキーボードを見なくても打てるようになりました。いわゆるブラインドタッチで、いまでもそれで大いに助かっています。
 ピアノを習う場合でも、初めからショパンやモーツアルトを弾ける人は居ません。単純な教則本やバイエルを何年も何年も習って、初めて弾けるようになるでしょう。楽器もそうですが絵画でもしっかりとデッサンが出来ていなければ良い絵はかけません。声楽家ならコールユーブンゲンは必ず通るでしょう。私も今でも一つぐらいは歌えますよ。
ソラシド、ドシラソド、ミファソラソファミレミファミド、ソソドミレドシラ、レドシラシシドレレソ、シシレ、ドシラソドソミソ、ドシラソファミレ、ドミソド、ドシラシド、レドシラソ、ミファソソド・・・ドンナモンダ! 運動選手も苦しい筋肉トレーニングや走行を何度も何度も試すでしょう。
 こんなことは改めて言うことでもないのですが、実に不思議なことに信仰に関しては、この原則が無視されることがあまりにも多いのです。今までの牧師の経験の中で、他から来た方々が、ほとんど聖書を読んだこともないのに何でも知っているように振舞うのに驚くことがありました。むしろ何も知らないように振舞うべきでしょう。

人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。Tコリント8:2(新改訳)

 キリスト教信仰の特徴は、長い求道や精進によってではなく、恵みによって救われることです。私の父は「クリスチャンは初めから完全なんだよ」と言っていましたが、本当にそうです。確かに救いは信じたときに完全に与えられます。それは主イエスが成し遂げてくださった十字架の御業によるからです。
 しかし、思い違いしてはなりません。それと、人間として、またクリスチャンとしての完成度は別物です。会社でも何でもそうですが初心者ほど無謀でラフなものです。熟練した人ほど慎重で謙虚なのです。多くの熟練した人が必ず言うことは「一度も満足したことはありません。まだまだやらなければならないことばかりです」という言葉です。
 教会は自分の賜物や知識や能力を競うところではなく、謙遜を競うところです。教会で最も優れた人は最も力のある人ではなく、最もへりくだった人です。イエス様もこう言っておられます。

あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。マタイ20:20

 これがキリスト教信仰の第一原則です。そうでなければキリストの僕ではありません。イエスさまは御自分をこうも言っておられます。

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。マタイ11:29(口語訳)

 キリストに習う最善の道は、聖書を読むことです。

聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。Uテモテ3:16

 聖書はクリスチャンにとって必要十分なものです。完全栄養なのです。ところが聖書もほとんど知らないのに、癒しだ、奇跡だ、しるしだ、預言だと特別な賜物を受けさせようとするのはなぜでしょうか?
赤ちゃんにミルクや離乳食を与える前に、ステーキやお寿司を食べさせるようなものではありませんか。このような脆弱な基盤から建て上げる家が安全でしょうか。もっとも聖書は不思議な書物で、ミルクもステーキも入っていますが。
 私は自称預言者という女性を少なくとも三人知っています。その預言の下らないこと。まるでメルヘンの世界です。彼らは下らないレベルで聖書に書き加えているのです。そしてこういう人たちは大胆に他人の生活に介入し、時には人生そのものまで変えてしまいます。私は彼らが聖書を通読したことがあるのか聞いてみたいと思います。これらの人々は、世の中の霊媒や占い師の霊と同じ霊に導かれていると思います。
 主イエスの弟子たちのことを考えて見ましょう。彼らはユダヤ人として幼少のころから神への信仰を持っていました。そしてキリストに出会い三年半寝食を共にして、教育を受けました。それでも足らずに、聖霊を受けるまで待つように命じられました。
 パウロに至っては偉大なラビ・ガマリエルの門下生で最優秀のエリートでした。しかし、ダマスコへの途上で主イエスに会い劇的な改心をしました。ところが彼はすぐに伝道を開始しないで、その後数年間だれとも会わず、一人でアラビアの砂漠で祈る生活をしたのです。彼が活躍するようになったのはバルナバに呼ばれてからです。偉大な聖徒たちはみんな神の仕事にはためらいと恐れを抱きました。それが当然です。
 しかし、こういう発想ではいわゆる今流行の“教会成長”や“リバイバル”は期待できないでしょう。(私はリバイバルという言葉をもう一度調べ直してみるべきだと思います。本当は何だったのか。日本のように元々キリスト教の地盤のないところでリバイバルがあるのか)。
聖書では足りないのでしょうか。何か興奮するものがなければならないのでしょうか。神は喧騒な大騒ぎを喜ばれるのでしょうか。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。詩篇46:10

 とあるではありませんか。
 地味で退屈な基礎訓練は必要ないのでしょうか。聖霊が下ると初心者でも突然、ベートーベンが演奏できるようになれるのでしょうか。そんなことがあるはずがありません。
 基礎訓練をしっかりやりましょう。その時、永続する信仰、堅固な教会、神の御力が現れるのです。