ホームページ・メッセージ090419           小 石  泉

あなたはわたしを愛するか?


 キリスト教信仰は、神への愛です。これは日本人から見て非常に奇妙な信仰かもしれません。その典型的な例は復活されたイエス様がガリラヤ湖に現れたときに、イエス様がペテロに言った言葉に表されています。

21:1 そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。 21:2 シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。 21:3 シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。

 イエス様が復活された後、弟子たちにガリラヤに行けと命じられました。彼らはエルサレムから故郷であるガリラヤ湖の湖畔の町カペナウムに戻っていましたが、やることも無かったのでしょう、ペテロは昔の仕事である漁に出ようと他の弟子達を誘いました。しかし、その夜は何も獲れませんでした。

21:4 夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。 21:5 イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。 21:6 すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。 21:7 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。 21:8 しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。

ここに、かつて彼らが弟子になったときと同じシーンが再現されました。イエスの愛しておられた弟子すなわちヨハネはその事を思い出して、「あれは主だ」と叫びました。するとペテロは裸だったのにわざわざ上着をまとって海に飛び込み主に向かって泳ぎだしました。いかにもペテロの人柄を表す情景です。全てをほっぽり出して行動する性格です。

21:9 彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。 21:10 イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。 21:11 シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。

陸に上がってみると、イエス様はすでに炭火をおこしており、魚も焼かれていました。復活されたイエス様が薪を集め、火をつけ、火を吹いておこしていたのかと思うと、何だか面白いですね。そしてその魚はどこから獲ってこられたのでしょうか。私は奇跡や魔術のように作り出したとは思いたくありません。復活された栄光の主が、この人間くさい姿をされていたことに感動するのです。弟子たちが獲った魚は153匹もありました。よほど印象的だったのでしょう、ヨハネはその数まで書いています。

21:12 イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。 21:13 イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。 21:14 イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。

弟子たちは、故郷を後にして3年半も主と一緒に歩いていました。そのイエス様が十字架に掛かったことはガリラヤ地方でも良く知られていたことでしょう。彼らは居心地が悪かったのではないでしょうか。空腹でもあったことでしょう。イエス様は「さあ、朝の食事をしなさい」と言われています。何と人間的な。何と自然な。復活の後なのに。

21:15 彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。 21:16 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。 21:17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。

 この有名な箇所で、イエス様はキリスト教の真髄を現されました。それは、一言で言えばキリスト教信仰とはキリストを愛することなのです。
 ここでヨハネはギリシャ語の愛という言葉を微妙に正確に使い分けていることは良く知られています。ギリシャ語には3種類の愛という言葉があります。男女の愛を表す場合はエロースという言葉を使います。次に愛国心や兄弟愛、母性愛、深い友情などの場合はフィレオーです。最後に罪人の為に自分を犠牲にする神の愛のような至高の愛を表す場合はアガペーと言う言葉を使います。
 さて、最初、主がペテロに聞いた「愛するか」は、アガペーでした。これに対してペテロは、「わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えていますが、この愛は、「そんな気高い愛は私にはありません」という謙遜からかフィレオーが使われています。主はもう一度「私を愛するか」と聞いていますが、これもアガペーです。これに対するペテロの答えはやはりフィレオーでした。三度目に主は「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」と聞いていますが、この愛はフィレオーだったのです! 何と優しい主!
「ペテロ、判ったよ。お前の言うようにフィレオーでも私は受け入れましょう。」
 この三回の「愛するか」は、主が逮捕された晩、ペテロがイエス様を三回「知らない」と言ったことを許し、復元することだったのでしょう。そして一度目には「わたしの小羊を養いなさい」と言われました。まだ信じて間もない未熟な信者を丁寧に養いなさいと言う意味です。二度目は「わたしの羊を飼いなさい」でした。少し成長した若い信者に、あまり世話をやかないで自分で成長するのを見守りなさいと言う意味でしょう。三度目には「わたしの羊を養いなさい」と言われました。それは成長した信徒をさらに訓練して有能な働き人にしなさいと言う意味でしょう。
 イエス様の信仰への導きは、決して強制や条件付けや脅迫やマインドコントロールがありません。何と多くの宗教にはそれがあることでしょう。そして気をつけないとクリスチャンも同じ過ちを犯すものです。私はこのことを非常に深く思います。

エルサレムの娘たちよ、わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、あなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。雅歌3:5

 愛は自然に起こるまで、そっと優しく育てるものです。かもしかと雌じかは自分を防ぐ方法を持ちません。ただ臆病で敏感な警戒心だけが防御の方法なのです。愛というものは臆病で傷つきやすいものなのです。そして愛だけが神との接点なのです。神は愛だからです。そして愛とは絶対的な自由の中でだけ選択されるものなのです。
 神様が天地を創造され、エデンにアダムとエバを置かれたとき、エデンに「善悪を知る木」と「命の木」を植えました。そして「善悪を知る木」の実は食べてはいけないと命じられました。しかし、アダムとエバはその実を食べてしまい、それが人間の原罪となりました。ところで、神様はどうしてそんな木を植えたのでしょうか。その実を食べてはいけない木なら植えなければいいのに。あなたは判りますか?
 実はこの木は自由を表しているのです。エデンがどんなにすばらしいところでも、神を信ずると言う条件付では愛は生まれません。愛とは拒絶する自由があって選択するときにだけ生まれてくるのです。神様はどんな強制も条件付けも無い環境で、人間が自発的に神を選ぶように期待されたのです。そうでなければ愛は成り立たないからです。
 愛の原則は自発性です。自由の中でだけ愛は培養されるのです。神は愛ですから、本当の愛を求められたのです。脅迫も条件付けも強制もマインドコントロールも無いことを「善悪を知る木」は表しています。神様は愛という次元では、人間と全く等しい位置にまで御自分を置かれたのです。
 神様でさえ、これほど愛を尊ばれるなら、私たちは信仰を他人に語るのに、どれほど注意深くなければならないでしょうか。キリスト教信仰は絶対に、脅迫、強制、条件付け、マインドコントロールでは伝えてはならないものなのです。それによって築かれた信仰は本物では有りません。間もなく崩壊するでしょう。
 信仰とは愛です。愛は自由の中で生まれます。