ホームページ・メッセージ090329           小 石  泉

今、黙示録を学ぶ-XII


22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、 22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。 22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、 22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。 22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。 22:6 御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。 22:7 「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」

都の中央を流れる川。当時の世界の首都はほとんどが川の岸に作られました。チグリス、ユーフラテス川のバビロン、ナイル川のエジプトの首都群、テヴェレ川のローマ。しかし、この新しいエルサレムは神と小羊の御座を水源とする川に建てられています。それは美しい川で両岸にはいのちの木があります。いのちの木はエデンに生えていました。その木はアダムとエバの堕落の後に回る炎の剣とケルビムによって人間から遮断されました。それが今や豊富に生えていて、毎月十二種類の実をならせます。全てが12で構成された都です。
 この都には人間が求め続けて得られなかった、健康、平和、豊かさ、長寿の全てがあります。それは人間が作ったのではなく、神が作った都です。ローマやアテネなど古代の全ての都市には偶像の宮がありましたが、この都には天地を創造された神の御座があります。
そこは光が満ち、夜さえないというのです。
 この都には、病、死、憎しみ、怒り、争い、苦しみ、嘆き、苦痛、偽り、ねたみ、不足などはありません。その代わりに、愛、喜び、寛容、慈愛、善意、柔和、慈しみ、感動、豊穣などがあります。そして、それは永遠に変わりません。これらの資質を聖書は御霊の実と呼んでいますから、それはこの地上でも受けとることが出来るものです。

肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、ガラテヤ5:19〜22

 ここに住む人々は王と呼ばれます。不思議ですね、彼らには王国があるのでしょうか。それとも何か別の意味で王なのでしょうか。

22:8 これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。 22:9 すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」

 ヨハネはこれらの幻をエーゲ海の小さな島、パトモス島で見せられました。パトモス島は当時、犯罪者の流刑地で、日本なら昔の八丈島のようなところでしょう。


パトモス島














ヨハネが黙示録を書いたと言われる洞窟に造られた修道院のチャペル










その入り口 
 











 ヨハネはこの世の終わりと、天の新しいいのちの光景を、この島で見せられたのです。驚くべきことはそれらの多くがすでに現実の物となり、さらに間もなく起ころうとしているのです。ここに書かれていることは、夢幻の物語ではなく、そのまま現実になると御使いは言っています。あまりにも不思議なことの成り行きの説明に、ヨハネはつい、天使を拝もうとしたほどでした。天使の「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」と言う言葉は正しく清いものです。

22:10 また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。 22:11 不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」 22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。 22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」 22:14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。 22:15 犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。 22:16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」

 11節は口語訳では「不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ。」となっています。新改訳はひどい訳ですね。ここは「行いなさい」ではなく「行うままにさせよ」でしょう。何だか小学生の作文みたいな訳ですね。 犬どもというのは、不潔な人,汚れた人を指して犬という表現です。古代ユダヤでは人を犬と呼ぶことは、はなはだしい侮辱を意味しました。
「ダビデの末、根、若枝」という言葉はメシヤの称号です。ユダヤ人にはすぐに分かる言葉でした。「輝く明けの明星」も同じですが不思議なことにサタンにも使われています。

暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。イザヤ14:12

 これは「輝かしいもの」という表現なのでしょう。

22:17 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。 22:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。 22:19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。 22:20 これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。 22:21 主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。

 「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる」というのは、黙示録だけではなく、聖書全般に言われていると考えられます。聖書は加えても引いてもならないのです。ですから2000年のときを経てなお、ほとんど90%は間違いなく受け継がれてきました。これは他の古い文献には全く無いことです。最良のものでも10%が受け継がれているだけです。
 
 これで黙示録の解説を終わりますが、今回ほど困難を感じたことはありませんでした。ほとんど、しどろもどろで、何度もやめたくなりました。結局、預言と言うものは成就したときに分かるものなのでしょう。しかし、これほど天の光景があざやかに記された書物もありません。その意味で興奮を覚える書です。何時の日かこの中にあなたも私もいることが出来ますように。



イスラエルの人々は,家の番犬として利用したり(イザ56:10),野獣や盗人の危険から羊を守るために群の番をさせた(ヨブ30:1).とはいえ,パレスチナ地方では,その昔,家畜犬は一般にあまり普及していなかったようで,犬と言えば野生のものが多かったようである.空腹な野生の犬は,夜になると,群をなして野山や市街地をうろつき,捨てられた物や死体を食いあさっていた(T列14:11,16:4,21:19,23,22:38,U列9:10,36,詩59:6,14,エレ15:3).こうした犬は,「足ることを知らない」(イザ56:11)餓鬼のように,群をなして戦場に集まり,戦死者の死体を食い荒らしたと言われる.
聖書の中では,不潔な人,汚れた人を指して犬という表現が使われている.人を犬と呼ぶことは,はなはだしい侮辱を意味した(Tサム17:43,Uサム3:8,16:9,マタ15:26,マコ7:27).ユダヤ人たちは,異邦人を犬と呼び,異邦人を汚れた者と見なしていた(マタ15:26,マコ7:27,黙22:15).また「聖なるもの」を理解できない人々が犬にたとえられ(マタ7:6),肉体の割礼だけを誇りながら心に割礼のないユダヤ人(申10:16)も,神の前に汚れた「犬」と呼ばれている(ピリ3:2).「自分の吐いた物」を食べる犬のように,一度捨てた罪に戻っていく人々(箴26:11,Uペテ2:22),肉欲にふける人々も犬と呼ばれ,軽蔑されている(申23:18).
以上に述べた軽蔑の用法に対して,謙遜を意味する用法もある.たとえば,「この死んだ犬のような私」(Uサム9:8)と言う時,それはきわめて謙遜な表現になる.他の例としては,Tサム24:14,U列8:13,マタ15:27,マコ7:28がある.