ホームページ・メッセージ090315 小 石 泉
今、黙示録を学ぶ-]
前回、大淫婦がアメリカではないかと書きましたが、もちろんこれは一つの推測で、断定するわけではありません。ただ、奇妙なことが起こっています。イラクを占領したアメリカは、あの膨大な財政赤字にもかかわらず、膨大な予算を掛けて古代バビロン遺跡の修復を行っています。また、世界最大の城塞のような大使館を建設しています。ここには体育館もスーパーマーケットも映画館もあり常時1000名が駐在します。現在、アメリカを支配している階層は熱心なサタン礼拝者ばかりで何を考えているのか理解できません。
19:1 この後、わたしは天の大群衆が大声で唱えるような声を聞いた、「ハレルヤ、救と栄光と力とは、われらの神のものであり、 19:2 そのさばきは、真実で正しい。神は、姦淫で地を汚した大淫婦をさばき、神の僕たちの血の報復を彼女になさったからである」。 19:3 再び声があって、「ハレルヤ、彼女が焼かれる火の煙は、世々限りなく立ちのぼる」と言った。 19:4 すると、二十四人の長老と四つの生き物とがひれ伏し、御座にいます神を拝して言った、「アァメン、ハレルヤ」。 19:5 その時、御座から声が出て言った、「すべての神の僕たちよ、神をおそれる者たちよ。小さき者も大いなる者も、共に、われらの神をさんびせよ」。 19:6 わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。 19:7 わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。 19:8 彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。 19:9 それから、御使はわたしに言った、「書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである」。またわたしに言った、「これらは、神の真実の言葉である」。
ここには美しい賛美と礼拝の姿があります。これこそ神の国の姿でしょう。私たちはまず「神をおそれる者たち」です。そして小羊なるキリストの花嫁の一部分です。(個々人が花嫁ではありませんので注意してください。)花嫁は「光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」とあります。心に響く言葉ですね。私たちも「小羊の婚宴に招かれ」ているでしょうか。ただ、この言葉の意味は何でしょうか。花嫁が婚宴に招かれるのは変です。これは招待された客と言う意味なのでしょうか。では、それは誰なのか? そこまで読み込まなくても、花嫁を指すと考えるべきなのでしょうか。難しいです。
19:10 そこで、わたしは彼の足もとにひれ伏して、彼を拝そうとした。すると、彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたと同じ僕仲間であり、またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい。イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」。
この小さなエピソードは神の前に立つということの正しいあり方を示しています。御使いは人間から見れば神々のように見えることでしょう。しかし、決して自分は礼拝を受けません。それを求めたのがルシファーです。彼は神のようになろうとしてサタンになりました。新興宗教の教祖たちが自分に栄光を帰して、神のように礼拝されることを求めるのとは対極に立つ姿です。
19:11 またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。 19:12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。 19:13 彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。 19:14 そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。 19:15 その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。 19:16 その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。
主イエスのお姿は、福音書とはなんと言う違いでしょうか。これが栄光のお姿です。「血染めの衣」「つるぎ」「鉄のつえ」「怒りの酒ぶね」。サタンと堕落天使、それらに嬉々として従った人間たちに対する恐ろしい裁きが行われます。忍耐の限りを尽くして待った末のことです。どれほど彼らが恐れおののくことか。それなのに、今、神を侮り、勝手気ままに、ありとあらゆる悪徳と暴虐を働いている者たちの気持ちが分かりません。(私はこのことに関して多くのことを知っていますが、それはここには書きません)
19:17 また見ていると、ひとりの御使が太陽の中に立っていた。彼は、中空を飛んでいるすべての鳥にむかって、大声で叫んだ、「さあ、神の大宴会に集まってこい。 19:18 そして、王たちの肉、将軍の肉、勇者の肉、馬の肉、馬に乗っている者の肉、また、すべての自由人と奴隷との肉、小さき者と大いなる者との肉をくらえ」。 19:19 なお見ていると、獣と地の王たちと彼らの軍勢とが集まり、馬に乗っているかたとその軍勢とに対して、戦いをいどんだ。 19:20 しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。 19:21 それ以外の者たちは、馬に乗っておられるかたの口から出るつるぎで切り殺され、その肉を、すべての鳥が飽きるまで食べた。
私はこれがハルマゲドンだと思うのですが、その後の起こる裁きなのかもしれません。これらは全て七番目の封印の中で起こっていることですから。時間的には同一の範囲にあります。ここに言う「中空を飛んでいる鳥」とは本当の鳥なのでしょうか。食べられる人間や馬は(これが現代の予言なら、馬に乗っているのも変ですが)そのままなのでしょうから、やはり鳥なのでしょうか。それとも全ては何かの比喩なのでしょうか。分からないとしか言えません。獣とにせ預言者はサタンの三位一体の二格です。サタンそのものの裁きはなおこの後になります。
20:1 またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。 20:2 彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、 20:3 そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。 20:4 また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。 20:5 (それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。 20:6 この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。
サタンの第一格である「年を経たへび」はまだ火の池に投げ込まれません。私たちからすれば、何で神様はさっさとサタンを始末されないのだろうと思うのですが、何か深いお考えがあるのでしょう。サタンは一時的に千年間鎖につながれ、その間にキリストによる千年王国があります。この千年王国は聖書の中でここにしか出てこない話なのです。
私は千年王国が理解できません。千年間もキリストが地上に住まわれるのでしょうか。その間に人間はどれくらい生きるのでしょうか。この地球が理想的な環境になるのでしょうか。車や飛行機が使われるのでしょうか。それともアーミッシュのような古い生活なのでしょうか。人間は結婚するのでしょうか。子供が生まれるのでしょうか。人間は死ぬのでしょうか。人間が夢見て果たせなかったユートピアが実現するのでしょうか。死んだクリスチャンはどこに居るのでしょうか。世界中がクリスチャンになるのでしょうか。
私に関して言えば、どんなにすばらしい地球でも、もう一度住みたいとは思わないのです。早く天国で神と共に居たいです。神様は御子の支配による理想的な世界を創って見せたいのでしょうか。しかし、それにもかかわらず人間は再び反逆するのです。それほど人間が救い難いものだという教えなのでしょうか。
20:7 千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。 20:8 そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。 20:9 彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。 20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。
千年王国の後に、サタンは解放され再び人間を誘惑します。特にゴグ、マゴグが惑わされます。ゴグ、マゴグはエゼキエル書38〜39章に出てくる、ロシアと思われる民族のことです。ところが、ここでは「地の四方にいる諸国民」と呼ばれています。エゼキエル書では明確に一民族の名前なのですが、ここでは諸国民となります。これが分かりません。それともこれはマルクス主義を指すのでしょうか。千年間も彼らが同じ思想を持ち続けていると言うのも信じられないことです。結局、これも起こってみなければ分からないことです。
20:11 また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 20:12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。 20:13 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。 20:14 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。 20:15 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。
これがいわゆる最後の審判です。大いなる白き御座の審判と言われます。天も地も無くなってしまいました。宇宙そのものが無くなってしまうのでしょうか。歴史上の全ての人間が神の前に出されます。数々の書物とは何でしょうか。分かりませんが、「いのちの書」は判ります。それはキリストの血によって書かれた書物です。別名を「小羊のいのちの書」とも言われます。すべての人は裁かれます。しかし、ここに本当のクリスチャンが入っているとは私は思えません。救われた者をもう一度裁くことはありません。小羊が身代わりになって裁かれたからです。ずいぶん虫のいいことだと思われるかもしれませんが、そのためにこそ御子は地に下られたのです。しかし、15節の言葉からクリスチャンも裁かれるのかもしれません。もちろん、いのちの書に記されているなら救われます。
死と黄泉も火の池に投げ込まれるとは不思議ですね。第二の死、それは神から遠く離された暗闇と永遠に消えない火に焼かれる場所です。