ホームページ・メッセージ090125 小 石 泉
今、黙示録を学ぶ-V
7:1 この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。
7:2 また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、
7:3 「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。
7:4 わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。
7:5 ユダの部族のうち、一万二千人が印をおされ、ルベンの部族のうち、一万二千人、ガドの部族のうち、一万二千人、
7:6 アセルの部族のうち、一万二千人、ナフタリの部族のうち、一万二千人、マナセの部族のうち、一万二千人、
7:7 シメオンの部族のうち、一万二千人、レビの部族のうち、一万二千人、イサカルの部族のうち、一万二千人、
7:8 ゼブルンの部族のうち、一万二千人、ヨセフの部族のうち、一万二千人、ベニヤミンの部族のうち、一万二千人が印をおされた。
第六と第七の封印の間に、この不思議な話が挿入されています。大きな嵐、大災害が起こる前に、神の僕たちの額に神のしるしが押されます。この人々は真のクリスチャン全てだとおもわれますが、後からの説明で、特別な人々とも考えられます。
その中で、特にイスラエルの民族のうちから144,000人がしるしを押されます。これについてエホバの証人を初めとしてさまざまな解釈がされています。中には奇想天外な馬鹿馬鹿しいものもあります。このイスラエル12部族にはダンの名がありません。これは、黙示文学の一つ、偽典「12族長の遺訓」の中に、ダンの部族から反キリストが現れると言われていることからくるのか、あるいは、当時のラビ文学によれば、ダンは偶像崇拝と不品行をなしたと言われていたことによるからか、諸説があげられています。恐らくダン族は歴史の中で消えてしまったのでしょう。ちなみに中国や韓国には壇という名の人々がいてダン族の末裔だとすることがありますが、こういうユダヤ同祖論は世界中にあるようです。
また、本来ならエフライムとマナセに移動したはずのヨセフの名が出てきます。そしてエフライムはありません。これは恐らくエフライムをヨセフとしているのでしょう。
さて、この人々をどう考えたらいいのでしょうか。時間的な経緯から考えると、彼らはイエスをメシヤと信じたメサニック・ジューと考えるのが一番妥当です。そして、ここに書かれている部族の名前はどうでもいいわけではありません。ユダと書かれているなら他の何者かに置き換えるべきではありません。ユダはユダ、ルベンはルベンです。エホバの証人のように144,000人がアメリカ人やイギリス人として現れるはずがありません。絶対に他の何かに置き換えることは出来ないのです。私はこの点を厳格に捕えるべきだと考えます。また、この人々をクリスチャンとする考え方が聖書学者の主流ですが、私はもっと聖書の文字に忠実であるべきだと思います。彼らは、この後でもう一度黙示録の中に現れるのでそのとき説明します。
また、144,000と言う数字は12×12×1000で、聖書が聖なる数字としている12を倍して、さらに一万倍すると言うことで、何か深いわけがあるのでしょう。
7:9 その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、 7:10 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。 7:11 御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、 7:12 「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。
なんと美しく壮大な光景でしょうか。こここそ歴史上の教会の全ての苦難が消し去られる時です。何時の日か、あなたもわたしもこの中に立って声を限りに叫んでいることでしょう。御使いたちと聖徒たちの大合唱が宇宙に響き渡ります。
7:13 長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。 7:14 わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。 7:15 それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。 7:16 彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。 7:17 御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。
ここで言われていることは、全てのクリスチャンに当てはまるのか、それとも特別に選ばれた人なのか分かりません。彼らは「大きな患難をとおってきた人たち」とありますから、共産主義の大迫害を通った人々かもしれませんし、まだ記されていない最後の大患難を通る人々の事かも知れませんが、この時点ではまだその時ではないようにも思われます。
なお、共産主義の迫害の実態は三月に徳間書店から出される在田 実著「マルクスの超素顔」を読んでください。リチャード・ウオンブランド師の著書の解説書です。
大患難と空中携挙について
ここで大患難と空中携挙について、私の考えを述べておきます。18世紀前半にイギリスのアーヴィング派から、キリストの再臨が二度あり、最初は大患難が来る前にキリストが空中に再臨され忠実なクリスチャンを秘密のうちに天に連れて行き、その後に世界的な大患難が来て、その後に再びキリストが地上に再臨されるという教えが広まりました。そしてそれは欧米のプロテスタントに広く受け入れられ、今では真理のように語られています。最近でも、この思想に立った「レフトビハインド」(取り残された)と言う本がアメリカでベストセラーになりました。(この本の著者ティム・ラヘイとジェリー・ジェンキンズは統一教会の文鮮明から資金援助を受けているという情報を読んだことがあります。)
ところがこの思想は15歳のマーガレット・マクドナルドと言う少女の見たと言う幻から始まっているということです。彼女は霊媒であり、WITCH(魔女、サタンに献身した男女)でした。アーヴィング派は、ラビ・ベン・エズラというペンネームを持つスペインからの亡命ユダヤ人でイエズス会士のエマニエル・ラカンタから教えを受けて、この教えを広めました。この教えはプリマスブレスレンを創設したネルソン・ダービーに受け継がれ、デイスペンシヨナル・トルース(時代真理と訳される)として、プロテスタントの中心的な思想となりました。(ネルソン・ダービーはフリーメーソンだったそうです。)
また、スコーフィールドという人が聖書(スコーフィールド・バイブル)を翻訳出版して、その欄外にこの解釈を付けたので一層信じられるようになりました。
確かに聖書には、それに似た御言葉があります。
それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。Tテサロニケ4:17
しかし、ここからそのような解釈や思想を作り出すことは無理があります。この思想の背景には「神さまがクリスチャンを患難に会わせるはずがない」と言う希望から来ています。ところが、歴史上クリスチャンは何度も患難に会っています。最近でも旧ソビエトを中心とする共産圏諸国での迫害は、これ以上に患難などないだろうというほどひどいものでした。中国でも北朝鮮でもクリスチャンは患難に会っています。
この思想は、クリスチャンに、患難に対する心備えをおろそかにさせ、あわてふためかせ、信仰を失わせる危険性があります。
むしろ、主は「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。ヨハネ16:33 と言われています。どんな状況の中でも、私達には主イエスがおられます。ですから「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」黙示録2:10
という主の御言葉こそ信ずべきものです。キリスト教信仰は命がけで持つものです。