ホームページ・メッセージ090111 小 石 泉
今、黙示録を学ぶ-T
出エジプト記を学んでいますが、今、黙示録を学ぶ時だと思いますので、しばらく出エジプト記をお休みして黙示録を学ぶことにします。なお、これは、あくまで私個人の解釈であって、他の誰の解釈も参考にしていませんので、その点はご理解ください。黙示録は大別して三つに分かれます。
1.七つの教会へのメッセージ
2.終わりの時のサタンの行動と災害
3.神の支配の新しい時代
1.は1章から3章までで、七つの教会は現在のトルコ、当時の小アジアにあった七つの都市の教会の御使い(守護天使?)に当ててイエス・キリストによって語られたものです。それはエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキアです。そして、これらは、その後の教会史を預言したものと考えられます。しかし、今までも何度か話してきたし、これからも話す機会があると思われますので、今回は取り上げません。
2.は4章から19章までで、終末の時代に起こる、恐ろしい災害とサタンの働きについて語られています。これを終末の予言ではなくすでに終わったことだと言う説が最近語られていますが。これはサタンの惑わしです。それでは黙示録の書かれた意味がありません。今回はこの2から取り上げます。
3.は20章から22章で、嵐が過ぎ去った晴れやかな天と地の情景です。
4:1 その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。 4:2 すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。 4:3 その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現れていた。
このラッパのような声の主は誰でしょうか。恐らく主イエスでしょう。恐らくと言うのは御使いが代わりに語っているかもしれないからです。しかし、一章でヨハネが見て気絶した恐るべき主イエスの声であるに違いありません。主は「これから後に起こること」をヨハネに見せてあげると言われました。
この後、ヨハネは「御霊に感じた」と言っていますが、この言葉をそれぞれの聖書は次のように訳しています。
新改訳: わたしはたちまち私は御霊に感じた、
新共同訳: わたしはたちまち"霊"に満たされた
NKJV: Immediately I was in the Spirit.
TEV: At once the Spirit took control of me.
私は個人的には最後の Today’s English Version が一番良いと思います。なぜなら、この後でヨハネは父なる神御自身に会っているからです。これは非常に珍しい箇所です。聖書は、神は人間には見ることが出来ない方だと言っています。
神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。ほまれと永遠の支配とが、神にあるように、アァメン。Tテモテ6:16
しかし、この後にヨハネは子羊である主イエスが御座の前にいるのを見ているので、この方は間違いなく父なる神です。そのような方に会うには、私たち人間の生身のままでは到底出来ないことです。ですからヨハネは聖霊に覆われたのです。聖霊は主イエスの血によって私たちの罪を隠し神の前に出ることが出来るようにしてくださるのです。その意味で、TEVの「コントロールされた」というのは良い訳だと思います。なお、ここには、父・子・御霊の神の三位一体がはっきりと現れていますね。
神を人間の言葉で表現することは不可能です。ヨハネはサファイア、エメラルド、めのうなどあらゆる宝石の美しさで表現しようとしていますが、本来無理なことです。
4:4 また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。
4:5 御座からは、稲妻と、もろもろの声と、雷鳴とが、発していた。また、七つのともし火が、御座の前で燃えていた。これらは、神の七つの霊である。
この24人の長老とは誰のことでしょうか。人間でしょうか天使でしょうか。24と言う数字で表されるのはイスラエルの12支族とキリストの12使徒です。これは21章のキリストの花嫁である新しいエルサレムの城壁の土台が12使徒、門が12支族であることからも推察できます。何と栄光に満ちた位置でしょうか。神の七つの霊というのは英語では Spirits と最初の文字が大文字になっていますから聖霊を表すのでしょう。聖霊が7人いると言う意味ではなく7とは完全を表す言葉です。
4:6 御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。 4:7 第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであった。 4:8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」。 4:9 これらの生き物が、御座にいまし、かつ、世々限りなく生きておられるかたに、栄光とほまれとを帰し、また、感謝をささげている時、 4:10 二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った、 4:11 「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。
水晶のようなガラスの海、どんなものなのでしょうか。実際に行って見たときの事を考えるだけでどきどきします。厳かで、静かで、清らかな神の御座です。
ここに現れた四つの生き物はエゼキエル書のケルビムと似ていますが、少し違います。ケルビムが一人で四つの顔を持っているのに対して、この生き物は四つそれぞれが別々に顔を持っています。また、エゼキエル書でケルビムの翼は六つではなく四つと書かれています。その点からこの生き物はイザヤの見たセラピムだと考えられます。*エゼキエル書1:4〜21,10:1〜22参照
ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。イザヤ書6:1〜3
ケルビムが前後に人と鷲、左右に牛と獅子の顔を持つのに対して、セラピムはそれぞれが人と獅子と牛と鷲の顔を持っています。セラピムもケルビムも神の最も御座近くに仕え、神の聖と義を表す務めを持っているかのようです。何時の日か私たちはこのような荘厳な場所に行き、これらの天使たちを見ることでしょう。
ここには父なる神と子なる神と聖霊なる神の前に、セラピムがいて、24人の人間の代表がいます。当然周りには無数のケルビムや天使たち(日本語で“万軍”英語では“Hosts”という訳がされている)がいて、さらに御子の血によって罪清められた無数の人間が見守っているのです。ああ、なんと壮大で清く、厳粛な場所でしょうか。
24人の長老たちは与えられていた王冠を投げ出してひれ伏します。どんなに謙虚で敬虔になっても足りません。永遠の神の前には、人は小さく空しい存在です。しかし、御子はこんな私たちのためにこのような栄光に満ちた天の御位をお捨てになって地に下られたのです。長老たちは「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」と神を讃えます。これこそが人間のできる最高のささげものなのです。