ホームページ・メッセージ081207               小 石  泉

         Bible Land museum
                       バイブルランド博物館

出エジプト記  No.4 モーセの召命

3:11 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」 3:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」

 モーセは自分を「私は何者なのでしょう」と神様に聞いています。この時、モーセは80歳でした。エジプトの王家の身分を捨てて逃走して、何と40年も経っていました。もし、40歳だったら、意気込んで働くことも出来たでしょう。しかし、ミデヤンの荒野で羊を飼う40年間は、彼の人間的な意欲や力を全く失わせていました。
 私たちが神の働きに召されるとき、人間的な意欲は返って邪魔になることがあります。確かに、適性というものはあるように思います。思慮深い、忍耐強い、愛情深い、的確な判断力がある。そういう人間的な資質が全く考慮されないと言うことは無いように思います。(ああ、その全てが私には欠けていますが・・・)
 パウロは生まれたばかりのキリスト教にとって無くてはならない適正を持っていました。そのほか多くの神の働き人がそうです。しかし、モーセは若いときの情熱によってイスラエル人を解放するようには召されませんでした。もう、全ての力を失った老人になったときに、初めて神は彼を召されたのです。
 ここで神様がモーセに与えた支援の約束は「私はあなたと共にいる」でした。この言葉は旧約聖書の中で4ヶ所、ヤコブ、モーセ、ヨシュア、イザヤに語られています。特にイザヤ書ではインマヌエル(神が我ら共に居られる)というメシヤの尊称として使われています。

それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。イザヤ7:14

 モーセに対して神様はメシヤ(キリスト)の尊称で約束されたのです。
 そして、エジプトからイスラエルを導き出した後で、「この山で」神に仕えると言われました。聖書はこの山ホレブを「神の山」と書いています。世界のどこに「神の山」と呼ばれる山があるでしょうか。日本には山そのものが神であるケースが沢山ありますが、天地を創造された神が、ご自身の居場所と定められた山はここだけです。その意味でホレブ山は世界で最も貴い山なのです。私は遠くからで良いですから見てみたいですね。

3:13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」 3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」3:15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

  聖書の中で神様が御自分の名前を告げるのを聞いたのは、モーセが最初です。それまでも聞いた人がいたかもしれませんが聖書には出てきません。元々、名前と言うものは他のものと識別されるために付けられるものです。神は他に全く比類なきお方ですから、名前は必要ないのですが、それでは人間を納得させることは出来ません。神様はモーセに、イスラエル民族に対して『わたしはある。』エヒエ・アシエ・エヒエ、ヤハウエと名を告げよとおおせられました。この時から、このお名前は貴い言葉としてイスラエル・ユダヤ人に残されました。聖書は筆記して保存するために、母音を省略して書かれましたので、英語(ラテン語か?)ではYHWHと表されます。この4文字をテトラグラマトンと言います。
 この言葉を英語の聖書ではT am that Tam. または T am. と訳します。「私はいる」すなわち存在する、存在の根源であると言う意味です。

3:16 行って、イスラエルの長老たちを集めて、彼らに言え。あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が、私に現われて仰せられた。『わたしはあなたがたのこと、またエジプトであなたがたがどういうしうちを受けているかを確かに心に留めた。 3:17 それで、わたしはあなたがたをエジプトでの悩みから救い出し、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地へ上らせると言ったのである。』 3:18 彼らはあなたの声に聞き従おう。

 イスラエルの人々にとって、アブラハム、イサク、ヤコブの神、というお名前が一番判りやすかったことでしょう。ここで問題なのは「カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地」を与えると言うところです。すでに他の民族が住んでいる土地を与えると言われるのです。これは3000年前の問題だけではなく、現代の問題でもあります。1948年にパレスチナ人の土地にイスラエルが建国されました。一般の人々は、けしからんと言います。しかし、これは神様の主権の問題です。世界は神のものですから神御自身が自分の思うままに出来るのですが、それでは納得できないと言う人が多いでしょう。
 この地はアブラハムに神様が与えると約束されたところですが、しばらくの間、別の民族に貸していたということなのです。ですからアブラハムの正当な嫡子権を持つイスラエル人が入っても良いと言う事なのです。こればかりはどうしようもない問題です。神がそう決められたから、そうなのだというしかありません。 ただ、このことは心に留めてください。パレスチナはユダヤ人が入植するまでは、マラリヤの蔓延する荒廃した土地でした。わずかな草を求めて遊牧民(ベドウイン)が羊を追っていたのです。しかし、ユダヤ人たちはここを開墾し、木を植え、緑したたる土地にしました。今やイスラエルの果物はヨーロッパを初め日本にまで輸出されています。(果物屋さんにならぶ緑色のグレープフルーツ、スイートを良く見るとIsrael Yaffaとあります。)ヨルダンとイスラエルの国境に立つと東のヨルダンは荒廃した茶色、西のイスラエルは緑豊かな穀倉地帯で、非常にはっきりしています。                  イスラエル側

 あなたはイスラエルの長老たちといっしょにエジプトの王のところに行き、彼に『ヘブル人の神、主が私たちとお会いになりました。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをささげさせてください。』と言え。 3:19 しかし、エジプトの王は強いられなければ、あなたがたを行かせないのを、わたしはよく知っている。 3:20 わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中で行なうあらゆる不思議で、エジプトを打とう。こうしたあとで、彼はあなたがたを去らせよう。 3:21わたしは、エジプトがこの民に好意を持つようにする。あなたがたは出て行くとき、何も持たずに出て行ってはならない。 3:22 女はみな、隣の女、自分の家に宿っている女に銀の飾り、金の飾り、それに着物を求め、あなたがたはそれを自分の息子や娘の身に着けなければならない。あなたがたは、エジプトからはぎ取らなければならない。」


           ヨルダン側

 当時のエジプトの権威と繁栄は現在の世界には匹敵するものはありません。それはツタンカーメンの墓の埋葬品からでも推察できます。ツタンカーメンは若くして死んだ、それほど権力の無いファラオでした。ですから権勢を誇ったラメセス2世などの墓はどれほどのものだったでしょう。ほとんど盗掘されて何も残っていなかったのですが。
 神様はモーセに、このファラオと対決し、さらにエジプトの富を“剥ぎ取れ”と命じられたのです。それはどれほどの価値のあるものだったでしょうか。恐らく何兆円という額になったでしょう。
 何が正義か、何が悪かは、時代時代によって変わります。モーセの場合もアブラハムに神様がこの土地を与えると約束されたとき、

「四代目になって彼らはここに帰って来るでしょう。アモリびとの悪がまだ満ちないからです。」創世記15:16

 と言われたように、当時の民族がソドム、ゴモラのように悪に満ちた文明だったと考えられます。神が定められた基準は永遠に変わりません。今、不正に見えることでも、永遠の尺度から見れば違うこともあります。現在の視点だけで判断することは出来ません。例えば、南米のインカ、マヤ、アステカなどの国々は非常に繁栄した文明国家でした。しかし、ほとんどの時代に、無数の幼児や男女の人身御供が捧げられた忌まわしい文明だったことが判っています。
 現代のパレスチナでもパレスチナ国家と言うものが出来たのはイスラエルが建国された後です。それまではオスマン帝国の貧しい一地方で、国家は成していませんでした。遊牧民が三々五々集落を作っていただけです。初めユダヤ人はそれらの土地を、お金を出して買ったのです。