ホームページ・メッセージ081102            小 石  泉

株とお金と信仰と


 数年前、ある兄弟がお母さんと深刻な顔をして相談に来ました。その御家庭はクリスチャンホームでしたが、その内容はお父さんが株を買っていると言うことでした。私は、株で大きな損をしたのかと思ったら、株をやることがクリスチャンとして間違っているのでは、という心配でした。私は「株は資本主義社会の正当な金融システムで、別に間違っているとは思えません」と答えると「そうですか」と答え、少し安心されたようでした。
 確かに株はギャンブル的な面はありますが、そんな神経質にならなくてもと思いました。また、あるアメリカのオーソドックスな信仰に育てられた姉妹は「宝くじはいけない」と言っていました。なるほど、宝くじはかなりギャンブル的です。しかし、宝くじが当たって会堂を建てた教会も知っています。
 さて、イエス様の次の言葉をどう解釈したら良いのでしょうか。

イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。それから彼は、主人の負債者をひとりびとりを呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。 小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。ルカ16:1〜12

 これは非常に難しいところです。まるで私たちの正義や清さの尺度とは違う気がします。一体、イエス様は何を言いたかったのでしょうか。
 正しいこと、清いことの戒めというものは限りなくエスカレートしていくものです。それは律法学者たちが律法をどんどんエスカレートしてがんじがらめに人々を束縛して、民衆が息絶え絶えになるほど圧迫していたことでもわかります。
 クリスチャンも同じような傾向があります。プロテスタントのある人々は、お酒をまるで悪魔のように嫌います。ところがイエス様は水をぶどう酒に変えました。もし、お酒がそんなに悪いものなら、水をぶどう酒にしないで、ぶどう酒を水にすべきではないでしょうか。イエス様自身、ぶどう酒を日常的に飲まれていたはずです。マルチン・ルターはビールが大好物でした。彼の誕生日にビールを持ってくるといった友人に「良いのを持って来いよ、まずかったら全部お前に飲ませるぞ」という手紙を書いています。
 確かに次のような言葉があります。

酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。エペソ5:18(新改訳)

 しかし、これは酒そのものを全く口にするなといっているのではないと思います。
 ダビデは詩篇にこう歌っています。

あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。詩篇23:5

 杯に溢れるのがジュースだとは思えません。

しかし、わたしが実際に書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない、食事を共にしてもいけない、ということであった。外の人たちをさばくのは、わたしのすることであろうか。あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか。外の人たちは、神がさばくのである。その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい。Tコリント5:11〜13

 この場合も、お酒が好きで前後不覚になるような人を指しているのでしょう。私は食卓で飲む程度のお酒は悪いことではないと思います。もっとも私自身はアルコールアレルギーでお酒はあまり飲めないのですが。
 さて、先ほどの御言葉で「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい」という箇所はどう考えたら良いのでしょうか。信仰者というものは自分にいろいろ制約を課して、それで自分が清いと思いたがるものです。
 当時、イスラエルはローマに占領されていました。それで、使われている通貨は主にローマの貨幣でした。ローマのコインには皇帝の肖像が刻印されています。それでユダヤ人たちは、それは偶像だと思って嫌っていました。それは、正に「不正の富」でした。私たちがこの世で生きる限り、この世との接点をなくすことは出来ません。お金を何よりも愛することは正しくありませんが、お金を汚れたものと見なすことも正しくありません。

だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。マタイ6:24

 という御言葉は必要最低限の生活費まで否定するものではないのです。富とは使い道のないお金のことで、生活費を意味しません。子供の学費や家を建てるための貯金は生活費であって富ではないのです。私たちはそのために普通の人と同じような努力をすべきです。天からマナが降るのを指をくわえて待てとは言われていません。
 私たちの日本の教団を創立した宣教師は、事故から自国に帰らざるを得なくなり、帰国して不動産業をされました。そのお金を元に、株式投資をしてかなりなお金を作りました。そして、それを惜しげもなく世界宣教に捧げました。毎年、彼は教団随一の献金者でした。これなど、正に不正の富を有効に使った好例でしょう。私は時々、若いときに献身者を志すよりも献金者を志すべきではなかったかと思うことがあります。
 ここでイエス様の金銭感覚を学びましょう。

さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた。そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう」と書いてあることを思い出した。ヨハネ2:13〜17

 イエス様が在世当時、イスラエルの神殿では先ほどのローマの貨幣で宮に捧げることは出来ませんでした。そのために宮のための清い貨幣に両替する必要がありました。ところがその換金率は非常に悪く、両替商たちは大儲けしていたのです。当然、場所の利権などが祭司に渡されていたことでしょう。イエス様はこういうお金を汚れた金と見なされたのです。そして激しく嫌悪されました。一方、美しいお金もあります。

イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。マルコ12:41〜44

せいぜい200円ぐらいのわずかな捧げもの。しかし、それはどんな大金よりも大きく美しいお金でした。ところで、ここで見ると、賽銭箱にはローマの貨幣を入れてもよかったのでしょうか。あの有名なデナリにはローマのカイザルの肖像があったと言う話があるのですから。いずれにしても、クリスチャンはお金を儲けてはならないという戒めはないのです。ただ、あまり執着することのないようにしなさいということです。むしろ、大いに稼いで、大いに捧げましょうよ。