ホームページ・メッセージ081026 小 石 泉
存在するという名の神
人間の体の細胞の中の直径10ミクロンの細胞核の一つ一つに、原子10個分の幅のDNAの二重螺旋が2メートル分入っています。人間の体全体では2000億キロメートルのDNAが入っていることになります。この内、これまでに科学者が判ったのは3%に過ぎません。このDNAはたった4種類の塩基(base)から出来ていて、あらゆる情報を内蔵し、これが全ての生命を決定しています。さらにDNAは初めから完成していて、偶然出来るということは絶対にないと科学者自身が認めています。また、数十億年(科学者が言うには)全く変化していません。DNAはあまりにも不思議なために科学者たちは“何か賢い存在”が作ったと言う結論に達しています。しかし、神の存在を認めることは彼らの誇りが許さないので、これはさらに昔(数百億年前)、宇宙のどこかで極度に発達した存在がいて、自分たちが滅亡する前に宇宙に何らかの方法で放出した、その一つが、出来たての地球に届き、生物の進化が始まったのだと言います。やれやれ、そんな無理しなくても、神様が創造されたと信じればいいのに。
最も簡単なたんぱく質が偶然に生まれる可能性は10の260乗分の1であるといいます。今人間の目に見える宇宙の原子全てを集めても10の8乗分にしかならなりません。筋金入りの無神論者である科学者が、こう言っています。「生命の起源は、今の段階ではほとんど奇跡に見える。それがきちんと機能していくために満たされる条件が多すぎるのだ」。また、進化論で、生命の誕生を説明する例話、岩にたまった濃い無機物のスープから偶然出来たということは「ガラクタ置き場を台風が通過したら、ボーイング707が出来ていたと言う話の方が有りうるくらいだ」と言うようになりました。
生物学も物理学も天文学も化学も遺伝子工学も医学も、今や究極の行き止まりに来ています。この先は霊の世界というターミナルに着いているのです。しかし、唯物論と進化論に束縛された科学者の世界では、霊の世界とか神の存在はタブーであり「言ったらそれでおしまいよ」となります。私はDNAをもっと研究すれば進化論は崩壊すると思います。
しかし、私は思うのですが、進化論にしても唯物論にしても全ては、何かが“存在している”ところから始まっています。どんなに考えても、なぜ“何かがあるのか”は答えられません。原子が集まって宇宙や人間になったと言います。ではその原子はどこから来たのかは誰も知りません。宇宙の始まりは無だったというのがビッグバンの解答でした。それが正しいのです。(私がビッグバンを信じているから馬鹿だと執拗に攻撃してきた人がいますが、私はビッグバンが聖書を証明すると思うから信じているのです。今、プラズマによるという天文学がビッグバンを否定するかのように言い始めていますが、それも何とかして神の創造を否定したい人々の偽りの科学でしょう。それさえプラズマがなぜ存在したかを説明出来はしません。)
無から有が生じる。何もないところに何かが出来る。それが創造です。
はじめに神は天と地とを創造された。創世記1:1
そしてDNAも創造されました。DNAは非常に精妙、驚異的で、神以外に誰も創造できないと科学者たちは認め始めていますが、それでも彼らは神様を信じることを拒否します。何という、かたくななことか。しかし、私は思います、私たちクリスチャンは問題を解かないで、解答を見てしまったようなものだと。ものすごく複雑な方程式の]を知っているのです。しかし、科学者たちは必死でその方程式を解こうとしています。ですから、科学者たちの努力は、それはそれで貴重なのではないでしょうか。解答を先にもらってしまうことは幸いですが、問題を苦労して解くことも大事です。もっとも答えに到達しなければ悲劇ですが。最近では科学者がクリスチャンになるケースが増えていると言います。
私たちの神様のお名前はYHWHと書きます。(この4文字をテトラグラマトンと言います)“私は在る”“在りて有るもの”と言う意味のヘブル語でヤハウエ(エヒエ・アシエ・エヒエ)と発音すると思われます。英語では“I am that I am.”または、ただ“I am”と訳します。面白いですね。be 動詞だけで表されるなんて。ユダヤ人たちはモーセの十戒の「みだりに唱えてはならない」という戒めに従って、この言葉を発音しませんでした。そこを沈黙するか、アドナイ(主)と言う言葉を当てはめました。その母音をYHWHに当てはめたのがエホバだそうです。
神様は“存在する”と言う名前であり、全ての存在の根源です。このお方から、全てのものは存在するようになりました。原子も宇宙も人間もDNAも。さらにイエスと言う名は、正しくはヨシヤ(エホシヤ)で“ヤハウエは救う”あるいは“救い主であるヤハウエ”と言う意味だと考えられます。
DNAはよく“言葉”と呼ばれます。それは4つの塩基の組み合わせによって、ありとあらゆる情報が伝えられるからです。私たちの救い主も“ことば”と呼ばれました。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。ヨハネ1:1〜3
イエスさまをDNAと言うつもりは毛頭ありませんが、存在するものの根源と言う意味では似ています。DNAも全てのものを形作ります。ヨハネは他の手紙に書いています。
初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について。Tヨハネ1:1
この書き方は面白いですね、「聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの」。すごく真実が感じられます。かつてシーザーは、ポントスのファルナケス2世と会戦しました。戦闘は4時間程でカエサルが指揮するローマ軍の勝利に終わりました。この時、ローマにいる腹心の一人、ガイウス・マティウスに、「来た、見た、勝った」とだけ書いた手紙を送ったと言われます。簡潔明瞭、シーザーらしい文章で、全てを語っていますが、ヨハネのこの文もそのように簡潔明瞭で、神の子が本当にこの世に来られたことを表現しています。当時、すでに教会には仮現論(ドケチズム)という異端が始まっていました。それは神の子イエスは本当にこの世に存在したのではなく、幻のように現れたのだと言うものでした。ヨハネはそれを戒めて、本当に神は現れたのだと言ったのです。
旧約聖書箴言には主イエスが神の創造のときに、どこに居て何をしていたのかを語っています。
主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、
海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。箴言8:22〜31(新改訳)
「わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。」と言うところから、主イエスは言わば大工の棟梁(現場監督)のように活動されていたことがわかります。神が世界を創造されたとき、実際の指揮をとったのでした。DNA も全ての生命の基ですが、DNAも主イエスが“組み立てられた”のです。最近の学者が、あまりにも不思議なDNAは、誰か「賢い存在たち」が作ったと結論したのですが、「存在たち」ではなく、「存在である」お方が創造したのです。素直にそう言いなさいよ。
パウロもキリストの天的な起源を語っています。
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、
また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。ピリピ2:6〜11
ヤハウエ、存在という名の神が、人となってこの世に存在したのです。33年6ヶ月だけ。
これは実に不思議なことです。もともと天地を創造した神がいるということ自体が信じられない人に、その方の御子がこの地球に来られたといっても到底信じられないでしょう。聖書には面白いことが書かれています。
あなたがたは彼らに、こう言わなければならない、「天地を造らなかった神々は地の上、天の下から滅び去る」と。エレミヤ10:11
“存在する”と言う名の神だけが永遠に神なのです。他の神々は滅び去ります。人間でさえ破壊できるものがどうして神でしょうか。核兵器で吹っ飛んでしまう神々。地球と言う物質に依存しなければ存在しない神。そのような神の名は“存在しない”です。