ホームページ・メッセージ081019 小 石 泉
我々はどこに行くのか
先週の話しの続きなのですが、私たちは死後どこに行くのでしょうか。私は改めてこのことを考えて見ました。私たちは普通、天国に行くと考えています。では天国とはどこでしょうか。実は「天国」と言う言葉は聖書では日本語の口語訳聖書のマタイによる福音書にしかありません。新改訳は「天の国」、新共同訳は「天の御国」、NKJVは kingdom of heaven、TEVは Kingdom of heaven です。
このように、天の国、天の御国、kingdom of heaven、Kingdom of heaven、とあり、色々な訳がなされています。(NKJV はNew King James Version, TEVはTodays English Version)
元々、聖書で天という場合、良い意味と悪い意味、良い霊界と悪い霊界があります。
天国は第三の天、パラダイス、天の御国、神の国、アブラハムの懐、新しいエルサレム
地獄は地獄(ゲヘナ)、火の池、黄泉(ハデス)、底知れぬ所、水のない所、暗闇の穴、死
聖書の天は旧約聖書ではヘブル語のシャーマイムで、「水の場所」「上空の大洋」という意味、新約聖書ではウーラノス、「空」あるいは「大気」という意味、共に複数形です。天は何層にも分かれていると考えられていました。
使徒パウロは「第三の天」に行ったと書いています。パウロはそこが神の住まいであると読み取れる書き方をしています。聖書では天とか天上に悪の霊が居るとあるので、天とは広い意味で霊界を指す言葉です。また現在の天は滅ぼされるとあります。この場合、当然神のいる天は含まれないので、「第三の天「が本当の意味で天国になるでしょう。パウロはこの「第三の天」を「パラダイス」と言っています。
「わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。」Uコリント12::2 「パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。」12:4
イエス様も「パラダイス」と言う言葉を使っています。
「十字架にかけられた犯罪人のひとりが、『あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ』と、イエスに悪口を言いつづけた。
もうひとりは、それをたしなめて言った、『お前は同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことを下のではない』。そして言った、『イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください』。イエスは言われた、『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』。」ルカ23:39〜43
「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう。」黙示録2:7
こうして見ると、私たちクリスチャンが最終的に神の元に行くのはパラダイスです。ところで、キリストが再臨した後に最後の審判があり、その後に現れる、「新しいエルサレム」とか「新天新地」と言う場合は「第三の天」とはどういう関係になるのでしょうか。特に「新しいエルサレム」は不思議な場所です。
諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。黙示録21::24〜:27
地の王たちが来る、諸国民も来るとあるのを見ると、地上にあるのでしょうか。しかし、
「また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、」黙21:2〜3
「のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。」22:3〜4
とあるので、神御自身が住まれるという意味で第三の天のようです。そうすると、このときにはパラダイスは地上に来るのでしょうか。それとも天のパラダイスと平行してあるのでしょうか。不思議です。
この他に「アブラハムの懐」と言う言葉があります。主イエスのたとえ話の中で金持ちと乞食のラザロの話があり、ラザロが死に、金持ちも死に、金持ちが黄泉から見上げるとラザロが「アブラハムのふところ」にいるのが見えたとあります。
「そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。
アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。」ルカ16:19〜29
この「アブラハムのふところ」というのがまた判りません。パラダイスとは別のもののようです。何となく旧約聖書の匂いがします。はっきりしているのは、「アブラハムのふところ」と、「黄泉」の間には「大きな淵」があって完全に隔てられていると言うことである。それは霊界そのものの有様を示すのでしょう。ただ、黄泉との関連でパラダイスに行く前の一時的な待合所のようでもあります。聖書では死者は眠っているとあります。
キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。1コリント15:20
兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。Tテサロニケ4:13〜14
では黄泉とは何でしょうか。元々、黄泉と言う言葉は日本語をそのまま当てはめたもので果たして正しい訳かどうかは判りません。(よみがえりと言う言葉は日本の故事から来ています)
ここは神を信じないで死んだ人が行くところで、やはり地獄への待合室のようです。キリストは死んだ後にここに行って福音を語ったとも言われています。
こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。Tペテロ3:19〜20
黄泉が一時的なところだということは、それが最終的には火の池に投げ込まれるとあることから間違いないようです。
それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。黙示録10:14〜15
この火の池が最終的な地獄のようです。また黄泉はハデス、地獄はゲヘナと別の言葉が使われています。
しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。黙示録19:20
そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。20:10
どういうわけか、地上に現れて一時的に世界を支配する反キリストすなわち獣(ギリシャ語では動物とは違うzoonと言う言葉が使われている)と悪魔であるサタンが「火の池」に入れられるのは時間差があって、サタンは千年王国の後で「火の池」に投げ込まれます。
「そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。」黙示録20:3
問題は何も知らず、積極的にサタンに仕えなかったような人々や幼くして死んだような魂まで投げ込まれるのでしょうか。確かに、こう書かれているのですが・・・・。
このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。20:15
ただ、私はそうは思いたくありません。自分を「愛」と言われる方が、何の優しさも恩恵もなく杓子定規に裁かれるでしょうか。ただ、「信じるものは救われる」と言うことだけは確かなのですが。
その他に「底知れぬ所」、「底知れぬ穴」、「水のないところ」、「暗闇の穴」などの言葉がありますが、これらは地獄と言うよりもサタンや悪霊たちが滞在を許されているところのようです。
「悪霊どもは、底知れぬ所に落ちて行くことを自分たちにお命じにならぬようにと、イエスに願いつづけた。」ルカ8:31
「彼らは、底知れぬ所の使を王にいただいており、その名をヘブル語でアバドンと言い、ギリシヤ語ではアポルオンと言う。」黙示録9:11
「そして、彼らがそのあかしを終えると、底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。」11:7
「汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。」マタイ12:43 「神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた。」Uペテロ2:4
しかし、私たちはこのような場所とはまったく関係ありません。私たちはキリストの花嫁の一部であり新しいエルサレムの住民です。そしてパラダイスを訪問することも出来るでしょうか。私たちにはすばらしい未来が約束されています。ですから、今起こっている様々なニュースに心乱されないで居ましょう。こう書かれていますから。
「不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。黙示録22:11