ホームページ・メッセージ081012 小 石 泉
神を信じられる奇跡
日本のクリスチャン人口は0.3〜0.7%と言われています。人口1000人に対して3〜7人と言うことになります。あとの993〜7人は神様を知りません。最近では、欧米でも3〜5%と言いますから、あまり変わらなくなっています。
こうしてみると神を信じている、または信じられるということは何と希少で不思議なことでしょうか。これは奇跡に近いことではないでしょうか。私たちは、「どうしてあの人は神さまが分からないのだろう。」と言いますが、実は「どうしてあの人は神を信じているのだろう。」と言う人々の方がはるかに多いことを覚えます。
私たちの周りには賢い人や立派な人が沢山います。しかし、どんなに言葉を選び、工夫し、忍耐して語ってもさっぱり分かってもらえないのです。人の知恵では神を知ることは出来ないのだなあと慨嘆することがあります。
この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。Tコリント1:21
おぼろげに神って居るのかなあ、と思っている人は多いと思うのですが、クリスチャンのようにはっきり、神の存在を疑うことなく信じ、キリストを信じると言うことは難しいことなのですね。いや、実はそれは不可能のようです。
そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。Tコリント12:3
「イエスは主である」という言葉は、原語では「主イエスを告白し」と言う意味だと学んだことがあります。つまりイエス様は、神の御子であり、処女マリヤより生まれ、罪無き人生を送り、十字架で人間の身代わりとなり死に、復活され、天に帰られ、再び来られると言うことを信じていることです。このような信仰は「聖霊によらなければ」持てないのだと聖書は言っています。どんなに人の知恵で理解しようとしても理解できないことなのです。私たちクリスチャンから見れば当然過ぎることですが、それは聖霊によって与えられている知識なのです。何と不思議で尊いことか。
最近、グラハム・ハンコックと言う人の書いた「異次元の刻印」と言う本を読んで、その事をさらに強く思わされました。この人は古代の遺物や宗教から現代の科学的な常識に対して疑問を投げかける精力的な研究と執筆を続けているジャーナリストです。私はあまり好感を持っていませんでしたが、この本を読んで少し考えを変えました。初めから物事を偏見によって決めつけずに、ものすごい探究心と行動的な実践によって、冷静に事実を把握しようとする態度は立派です。この人は無神論者であり進化論を信じています。ところが進化論ではどうしても解けない謎がある、それは宗教の誕生だということを深く考えます。そして、そこからこの世界以外の異次元世界があるのだろうかと探求し始めます。
異次元とは言い換えれば霊の世界です。世界の科学者が頭から否定するこの問題を彼は真摯に追及しようとします。そして、アフリカのシャーマン(呪術師)のところに行って、幻覚を与える草木の毒薬を飲みます。これは危険な実験です。彼は奥さんや友人に立ち会ってもらって、その薬を何度も飲んで壮絶な探求を開始します。ものすごい苦痛と恐ろしい幻覚。そして、彼はそれが幻覚以上のものだと知ります。そこまでやるか!と思いました。と同時に、そんなことをしなくてもあなたには聖書があるでしょうと言いたかったです。その結果、彼は確かに霊の世界を見たと言っています。彼はそれが幻覚以上のもので、この世以上の現実であり存在だと結論します。確かにそうかもしれません。しかし、彼が見たものは霊の世界の最底辺、地獄の至近距離にある悪霊の棲家であると私は確信します。
私は、彼のその真実への誠実な探求を評価します。そして、私たちは霊的な世界を見たわけではなく、ただ信じているのです。しかし、私たちの知っている霊の世界は、平安と喜びに満ちていますが、彼の見たものは恐怖と闇、恐ろしい怪物と哀れな悪霊たちの(エイリアン、妖精など)いる、神のいる世界とは対極にあるものです。ですから、そうまでしなくても、あなたの机の上の聖書を開き、神様に求めればいいのにと思いました。彼に本当に必要なものはほんの小さな信仰、神への謙遜であるのです。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。ヘブル11:6
信仰とは「見えないものを見ているように」振舞うことです。見えるものなら信じる必要はありません。
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。Uコリント4:18
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。ヘブル11:1
信仰によって、彼(モーセ)は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。11:27
イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。ヨハネ20:29
グラハム・ハンコック氏は優れた知能の持ち主なので、見えないものは信じられず、麻薬や毒薬で死や発狂の危険を犯してまで、霊の世界を見ようとしました。しかし、信仰の本質は見えないものを信じることです。
私たちが神の前にへりくだり、信じようと心を決めるとき、神の聖霊はすぐに来て、私たちを助け、信仰の本質、神の御子が見えるような確信を与えてくださいます。しかし、見ないで信じるということは、賢い人々にとって、自分の理性を否定する愚かな行為に見えるのでしょう。確かに、そういう危険性はあります。しかし、水泳を習う時、水に自分をゆだねなければ決して浮きません。信仰は神に自分をゆだね、任せることを意味します。
問題はこの神様が、あなたの全てをゆだね、任せることが出来るお方かどうかです。そのためには神ご自身が証明してくださいます。
兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。Tコリント2:1〜5
キリスト教信仰とは結局、人の知恵によるものではありません。どんなに勇敢で、必死に、自分の力で探求しても、最後は信じると言う愚かさによるのです。もう一度最初の御言葉を読み返して見ましょう。
この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。Tコリント1:21〜25
神様は御自分の創造の力や、これ以上ない偉大な権威や、信じがたい美しさで人に自分を現さず、「宣教の愚かさ」によって現されることとされました。これは大きな逆転の発想です。このような愚かさを信じるものを選ばれるためなのです。
あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。マタイ6:6
神は隠れておられる方です。これは人間が軽々しく近づかないためです。信仰だけがこの方を現すのです。信じられると言うことは本当にすばらしい幸運、奇跡なのです。