ホームページ・メッセージ080921            小 石  泉

人間の悲惨


 人間とは悲惨なものです。そんなことを言うと、牧師のくせに、何でそんな希望の無いことを言うのかと怒られそうですが、どうぞ、最後まで聞いてください。
 日本橋の教会で協力してくれている渡邊姉妹は、最近、広島に行ってきて、究極の人間の悲惨を見てこられました。それは正に言語に絶するもののようです。今度は長崎に行くと言っていますが、私はとても行く勇気がありません。
 また、最近、NHKがベトナムやイラクの帰還兵のPTSD(心的外傷後ストレス障害)の話題を放送していました。ごく平凡な若者が戦場で多くの民間人を殺害し、その記憶で正常な精神を保てなくなっている話でした。多くの帰還兵が良心の呵責で自殺しています。これも人間の悲惨ですが、もっと悲惨なのはベトナムで、アフガニスタンで、ユーゴで、イラクで、殺されていった無数の民間人でしょう。それどころか、人間の歴史は戦争と殺人の歴史です。悲惨そのものではないでしょうか。
 アダムとエバが神に背いて堕落してから、人間は悲惨なものとなりました。アダムの家は一日の内に最初の死者と殺人者を出してしまったのです。何と悲惨な家庭だったことか。
 ところで、このようにあからさまな悲惨のほかに、別の悲惨があります。

ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。彼に男の子七人と女の子三人があり、その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。ヨブ1:1〜5

 何と美しい家庭でしょうか。クリスチャンホームの模範のような家庭です。ところがこの家庭に恐ろしい悲劇が起こります。ヨブは一日の内に全ての財産と子供を失い、自分自身も皮膚病に犯されるという悲惨を味わいます。詳しいことはヨブ記を読んでいただくとして、ここに、目に見える悲惨以外の、目に見えない悲惨がありました。それは正しく、清く、神を愛するヨブが、なぜこのような悲劇に会わなければならなかったかです。
 私は、今の時代にも、このようなケースをいくつか見ています。
 非の打ち所の無い、立派な牧師の家庭に、信じられないような悲劇が起こることがあります。立派な教会を作り上げ、子供さんたちも清く正しく美しい心で、まるでヨブのように理想的な家庭です。ところが社会にはそんな美しい人間ばかりいるわけではありません。どうしようもないほど邪悪な人間とも接触しなければなりません。そして、彼らには想像もできない邪悪さで、美しい心が引き裂かれる悲劇が起こります。
 日本は戦後60年、まれに見る平和を享受しました。その結果、人間の悲惨、あるいは邪悪さについて、恐らく世界でも最高級の無知な民族となっています。何不自由なく育って、無邪気で(特にクリスチャンは)悲惨を知りません。
 人間が悲惨でないなら、キリストの救いは必要ありません。悲惨を知ることは信仰の仕上げ段階なのです。ヨブの信仰を神様は非常に喜んでおられたことは、読んでみればわかります。しかし、どうしても悲惨を教えなければ信仰は完成しません。神様は涙を飲んで、ヨブをサタンの手に渡します。

ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。主は言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。 しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。1:6〜11

 実は、ヨブの最大の悲惨は、何かを失ったことではなく、なぜ、このような悲劇が起こったか分からなかったことです。その理由が分かれば耐えられるのです。しかし、何も思いつかない。彼の友人たちは、ヨブに何か落ち度や隠れた罪があったのだと責めたてます。しかし、ヨブにはどんなに反省してみても思い出すことが無い。
 立派で、美しい人格だからこそ、悲惨を教えなければならなかった。美しいままでは天国には行けません。天国は悲惨から救われた人の行くところなのです。

『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。マタイ9:13

 キリストが来たのは、罪に沈む悲惨な人間を救うためです。これは全く人間の発想とは逆です。ほとんどのクリスチャンは罪の深み、人間の悲惨を知りません。そういう義や善はひ弱な義や善なのです。クリスチャンホームに育ったり、あるいは何不自由なく豊かな環境で育った、美しい心の人々には残酷な教育がなされなければならないことがあります。

イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。ルカ5:31(新改訳)

 人格も環境も信仰も健全だった。何も問題ない人生だった。それだけでは救いの真髄は分かりません。救いは罪の中から、悲惨の中から、汚濁の中から、闇の中から救われて、初めて本当の意味があるからです。幼子のような無邪気さは真の意味で神を知っていることにはならないのです。
 聖書は信仰をしばしば陶器の製作過程に例えています。

されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。イザヤ64:8

主からエレミヤに臨んだ言葉。「立って、陶器師の家に下って行きなさい。その所でわたしはあなたにわたしの言葉を聞かせよう」。わたしは陶器師の家へ下って行った。見ると彼は、ろくろで仕事をしていたが、粘土で造っていた器が、その人の手の中で仕損じたので、彼は自分の意のままに、それをもってほかの器を造った。エレミヤ18:1〜4

 このつながりから言えば、最善の人々に与えられる悲惨または試練は、陶器の仕上げの段階に例えられるでしょう。よい陶器を作る場合、粘土で作った壷を乾燥させ、低温の窯で素焼きにします。その後にその上に釉薬を塗り、模様を着け、高温の窯で焼きます。そして美しい陶器や磁器が出来上がります。
 同じように、私たちを仕上げるために、陶器師である神様は私たちをもう一度、(人によっては初めて)悲惨や困難や試練にあわせて磨き上げるのです。この過程は本物のクリスチャンを作り上げるためにどうしても必要なのです。そして、この過程に入る人は、それに耐えられるだけの基礎的な信仰の段階に到達している人です。そうでないと壊れたりつぶれたりしてしまいます。
 人間の悲惨を知ること、それは神の国に入るための最後の仕上げです。だから、

いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。Tテサロニケ5:16〜18

 そして、試練の只中にある方は、次の御言葉を自分に語り続けてください。

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
ローマ8:28