ホームページ・メッセージ080914 小 石 泉
老人問題と聖書
人間が一番幸せなことは、もちろん神を知ることですが、普通の生活の中で“自分は必要とされている”という感覚こそ幸せを感じることだと思います。ところが一般には自分のために何かを受けること、自分を中心に全てが整うことが幸せだと思うことが多いのではないでしょうか。そのために返って不幸になっているケースがなんと多いことでしょう。
わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。使徒行伝20:35
この御言葉は不思議なことに福音書には書かれていません。しかも、使徒ではなかったパウロ先生の話です。しかし、これはイエス様の言葉に違いありません。ここには大きな真理があります。受けるよりも与える方が幸いなのです。
かなり前になりますが、ある“いやし系”と言われる女優が「では、私は誰にいやされれば良いのでしょうか?」と言っているのを知って、この人は分かってないなと思いました。他人をいやすとき、実は自分もいやされているのです。子供のことを第一に心がけているお母さん、会社にとって重要な仕事をしているサラリーマン、病院の医師や看護師、保育園の、幼稚園の保母さんや先生などが生き生きとしているのは、自分が必要とされていると言う事を感じているからでしょう。
最近、日本でかなり大きな問題として取り上げられているのは、老人介護です。もちろん寝たきりになられた方々や認知症(変な言葉だ)になられた方々は仕方が無いにしても、それ以前にもっと何か出来ることは無かったのでしょうか。80歳や90歳になられても元気一杯かくしゃくとされている方々を見るとその感を強くします。
定年退職された方々が、これから何をしたらいいのだろうと悩むのを見ると、気の毒になります。私ならこれからは誰の制約も受けずに、自分の好きなことが出来ると思うのです。例えば、農業です。それが生活の糧を得るための必要手段でないのですから、楽しんでできる範囲でやればいいではないですか。またボランテアもそうですが、日本人特有の真面目さから、規則や方策に縛られて苦痛になることが多いようですが、老後ぐらい、楽しく生きましょうよ。 私には夢があります。それは老人ホームではなく老人ホテルを作ることです。老人たちが幼稚園児のように介護の保母さんに手を引かれて歩いているのを見ると情けなくなります。老人の中にはプライドのある方々も居られるでしょう。“誇り高い老後”と言う考え方がもっと強調されていいのではないでしょうか。オペラ歌手の藤原義衛さん、映画評論家の淀川長冶さんはそれぞれホテルで晩年を過ごされました。私はこのようなプライドのある老人たちが幼稚園児のような扱いを受けないで晩年を過ごすホテルを作りたいのです。新しいホテルを作る必要はありません。駅の近くの大きなホテルが経営不振で倒産しているケースを沢山見ました。誰か最初の経費と財政上の責任を持ってくださる人はいないでしょうか。私は日本には、体は少し不自由でもプライドを持って生きたい老人が必ずいると思うのです。中にはチャペルを作ります。しかし、絶対に信仰を強要しません。
よく言われる言葉に「生きがい教室」などというものがあります。年を取ってから、生きがいを教えられなければならないなんて! 生きがいと言うものは自分でそれまでの人生で見つけてこなければならないでしょう。趣味に生きる? そんなことしかないのですか? 本当の生きがいは神を知り、神とともに生きることのほかにありません。
事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。伝道の書12:13
それでも信仰は自発的なもので無ければなりません。日本では老人を尊ばない風習があります。姨捨山の伝統です。私の経験から言って、年齢を増すほど物事の理解の深みは増しますし、感動も増します。ユダヤ人たちは老人を敬います。それは経験と言う年齢を経なければ獲得できない富を持っているからです。
あなたは白髪の人の前では、起立しなければならない。また老人を敬い、あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。レビ19:32
老人ホテルには散策する庭も、折り紙を楽しむ部屋も必要ありません。そういうことは外に行って経験し、教える側になっていただきます。農業の知恵、工業の知恵、家事の知恵、美術の知恵、音楽の知恵、子育ての知恵、どんなに多くの若い人々が途方に暮れていることか。老人は知恵の宝庫ですよ。だから、これを実践していただきましょう。
与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。ルカ6:38
主イエスの語られたこの原則は、老後と言われる人々にも真実です。与えられる、面倒を見られる、世話をされることを当然として、受けるだけの体制を作ってしまっていないでしょうか。与える喜びを失わせていないでしょうか。
あるイギリスに長く滞在した婦人が、日本に帰ってきて「日本は老人を甘やかしすぎる」と書いていたことを読みました。私も今年で68歳になりますが、やりたいことが一杯あります。その気になれば3000坪の土地を農地として使って良いと言われています。ただ忙しいのと、体が付いていけないので出来ないでいますが。
自分を他人の為に捧げつくすとき、本当の生きがいがあります。
またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。ルカ22:19
主イエスはご自身の全てを私たちの為に捧げつくされました。十字架の上で死にいたる前には下着までも兵士たちに奪われ、それこそ素っ裸になるまで与え、そして命までも与えられました。
与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。ルカ6:38
老後の生きがいを、「与えること」にしましょう。金銭的なことではなくとも、愛と助けをいつも探していましょう。お節介になるのは困りますが、静かに見回して、慎ましく、そうありたいものです。