ホームページ・メッセージ080907             小 石  泉

主の面影は遠く


 私はこのごろ主イエスが遠く感じます。若いころ、燃えていたとき、ヨハネのように主の御傍にいつも居たいと願っていました。そして、いつも主と共に居たように思います。しかし、今は、何と主から遠くなり、熱も薄らいでいることか。
 そして、私だけでなく、世界のキリスト教会の多くが、冷ややかで遠い信仰になっているように感じます。今、主の為に“何かをする”のではなく、まず、主御自身を“見つけなければならない”のではないでしょうか?

そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。ヨハネ1:14

 ヨハネは、主イエスが父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」と言っています。しかし、当時の人が皆そう思ったわけではありません。イザヤは当時の人々が主イエスをどう思ったかを700年も前に預言して言いました。

彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。イザヤ53:2〜3

 しかし、ヨハネの目には、主イエスが神御自身を完全に表していると見えたのです。

初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について−このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである−すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。Tヨハネ1:1〜4

 ヨハネは「私は見た、観察した、触った」そして、「その方は、間違いなく永遠の命であった」と証言しています。この違いは何でしょうか。信仰の目を持っているのと、そうでないのではこんなに違うのです。私たちも主の面影を求めて行きましょう。
 聖書は、主イエスの誕生とその後の短い記録以外は、生い立ちについては全く書いていません。そして、突然バプテスマのヨハネの前に現れて、「秩序に従って」洗礼を受けられ、メシヤとしての歩みを始められました。それは漁師だったペテロとヨハネとヤコブを仕事場から引き抜いて弟子にするという、驚くべき唐突な行動でした。

イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。マタイ4:19

 もしかすると、こういうことは、当時は良くあったのかもしれません。しかし、イエス様は、これから2000年間御自分の福音を託す中心となる人々を選び出すという、重大な仕事をこんなにもあっけなく済まされたのです。試験も経験も何も問わずに。ガリラヤ湖の湖畔を歩く主のまなざしは、十字架に至る福音の道に一直線に向かっていたことでしょう。
 それからの忙しい宣教活動の間に、主の面影を伝える小さなエピソードがあります。

ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。 マルコ12:42〜44

 華々しい奇跡や、律法学者やパリサイ人たちとの論争の合間に、ふと見せた主イエスの優しさと哀れみに満ちた面影です。金持ちがジャラジャラと大金を投じている賽銭箱の片隅で、ひそやかに、その日の生活費全部を投げ入れた貧しいやもめを、主イエスはじっと見ていました。ひとつの隠れた小さな信仰を主は知っていました。

町の門に近づかれると、ちょうど、あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだので、葬りに出すところであった。大ぜいの町の人たちが、その母につきそっていた。主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。すると、死人が起き上がって物を言い出した。イエスは彼をその母にお渡しになった。ルカ7:12〜15

 ここにも主の優しい面影があります。一人のやもめの唯一の頼りだった息子の死。多くの人は彼女を慰めていました。しかし、世界の誰もが考えもつかない業を淡々とやってのけられたのは、この方しか居なかったのです。「泣かないでいなさい」と言う言葉は単なる慰めではなく、当たり前のことのように「若者よ、さあ、起きなさい」という驚異の結果を約束していました。ここには奇跡を売り物にする、あざといエバンジェリスト、興行師の姿は微塵もありません。ただ「深い同情」だけです。
 また、互いを競い合う弟子たちに(これは今でも頻繁にあることですが)言われました。

それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。マルコ9:33〜 37

 互いを競うという人間性そのものが、神のひとり子の集団の中にもあったのです。主の言葉は、人間の競争心を全く逆転させるものでした。弟子たちは分かったのでしょうか。いまだに教会の指導者は分かっているとは言えません。
 ところでこのエピソードをマタイは別の角度から書いています。

そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。マタイ18:1〜6

 ここには弟子たちの間の紛争の問題とは別に、主の子供に対する愛と優しさがあります。イエス様は子供が好きでした。子供を抱いて哀れみに満ちた主イエスの面影が見えます。

するとイエスは言われた、「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」。19:4

 あどけない、無邪気な子供こそ、天国にふさわしい心を持っているのです。大人でも持ち続けた人の代表はアッシジのフランシスでしょうか。
 やがて、復活された主は、多くの弟子たちにお会いになりました。何と500人以上に現れたとパウロは言っています。その内の一つのケースはエマオという村に向かっていた二人の弟子たちに現れたケースです。彼らが無理やり引きとめてお話を聞いた後で、

彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。ルカ24:31〜32

 彼らは復活した主を見ても分かりませんでした。しかし、主のお話の間、彼らの心は内で燃えました。恐らく、復活された主の面影は変わっていたのかもしれませんが、お話の内容は彼にとって、あの“主”だったのです。十字架に掛かられ、死んで葬られ、復活され、天に帰って行く40日間の忙しい時間の間に、ペテロやヨハネだけでなく、それほど名の知られていない弟子にまで一人一人出会って行かれた主。Tコリント15:6では500人以上の弟子たちに会ったと書かれています。これも主の面影です。
 そして数年後にヨハネに現れたときは全く変貌していました。

そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。黙示録1:12〜19

「かしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」
 この箇所は面影というより形相と言うべきでしょう。再臨される主のお姿は全く私たちの知っている、優しい、愛に満ちたお姿ではありません。あのヨハネですら気絶してしまったほどです。しかし、それは神を神としてあがめず感謝もせず、サタンや悪霊を拝み、反逆の限りを尽くした人類に対する神の正義の御怒りのお姿です。
 しかし、私たちはこのようなお方ではなく、あの福音書のイエス様にお会いできるでしょう。なぜなら私たちはキリストの花嫁である教会の中にあるからです。花嫁は、あの雅歌のように、優しい愛の御手で迎えられるでしょう。私たちは主の面影を忘れないようにしましょう。間もなくお会いできるのですから。
 
 
 
*私はキリストと教会の愛の姿を描いた「雅歌」の解説書を書いています。ご希望の方はお申し出ください。