ホームページ・メッセージ080824 小 石 泉
神の選民
グルジア問題でロシアのメドベージェフ大統領と、フランスのサルコジ大統領が会談し、ドイツのメルケル首相が発言しているのを見て、私は非常に深い感銘を受けました。この三人も、グルジアの国防大臣もユダヤ人だからです。何でも仲間内で間に合っているなあと思いました。他にもアメリカ最大の金融王ロックフェラー家、ブッシュ大統領も、隠れユダヤと言われますし、イギリスの王家をはるかにしのぐ権力者、世界の金融の帝王ロスチャイルド家もユダヤ人です。今やユダヤ人が世界を支配しているのは明白です。とりわけ、ごく一部のユダヤ人はサタンと結託して、反キリストを世界に送り出すべく着々と準備しています。彼らは世界の富の半分以上を持ち、今や何でもできる立場にいます。しかし、気をつけていただきたいのは大半のユダヤ人、ほとんど90%以上のユダヤ人はそんな世界的な陰謀とは無関係にごく当たり前の生活をしています。それどころか歴史上、至る所で、ユダヤ人ゆえの迫害と危機にさらされてきました。ユダヤ (イスラエル)人は神に選ばれた民、選民です。
イスラエルの人々は、エジプトの地を出て後三月目のその日に、シナイの荒野にはいった。すなわち彼らはレピデムを出立してシナイの荒野に入り、荒野に宿営した。イスラエルはその所で山の前に宿営した。さて、モーセが神のもとに登ると、主は山から彼を呼んで言われた、「このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げなさい、『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。
それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。出エジプト19:1〜6
彼らは「わたしの宝」「祭司の国」「聖なる民」と呼ばれています。しかし、彼らの歴史は神への反逆と罪にあふれています。偶像礼拝、魔術、占い、時には自分の子供を火に焼いてバールやモレクに捧げたり、神の聖所の中に偶像を置くことさえしました。それはどんな異邦の民よりもひどいことさえありました。しかし、それにもかかわらず、彼らが選民でなくなったことは一度もありませんでした。
主は言われた、「その子の名をロアンミと名づけよ。あなたがたは、わたしの民ではなく、わたしは、あなたがたの神ではないからである」。しかしイスラエルの人々の数は海の砂のように量ることも、数えることもできないほどになって、さきに彼らが「あなたがたは、わたしの民ではない」と言われたその所で、「あなたがたは生ける神の子である」と言われるようになる。ホセア1:9〜10
神様は、反逆に怒っても、彼らがちょっと悔い改めると、すぐに許しました。すでにお話した、アハブ王、マナセ王に見るとおりです。
わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。ホセア11:8
これは第一にイスラエル人に語られた言葉です。しかし、彼らが神のひとり子である、主イエスを拒んだときから、彼らは神が見えなくなりました。
イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。ヨハネ14:9
「わたしを見た者は、父を見たのである」と主イエスは言われました。それだからイエスを見ないイスラエル人は神が見えなくなったのです。ユダヤ教の経典といわれるタルムードなどを読むと、正に「群盲象をなでる」の例え通りで、分かってないなあと思わされます。しかし、それにもかかわらず、彼らが選民でなくなったことは一度もありませんでした。
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。ヨハネ14:6
「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と主が言われたのですから、イエスを拒んだユダヤ人は神のみもとに行くことは出来なくなりました。しかし、それにもかかわらず、彼らが選民でなくなったことは一度もありませんでした。
神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。ヘブル1:1〜3
神様は御子イエス・キリストによって最後の啓示を現されました。だから、イエスを主と信じる人々は新しい選民と呼ばれるようになりました。
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。Tペテロ2:9
この御言葉はクリスチャンに向けて書かれたものです。これがパウロではなくペテロの言葉だから驚きます。パウロも次のように言っています。
ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。ローマ10:12
パウロにとってユダヤ人と異邦人の区別はありません。神は全ての人類を平等に見られるというのがユダヤ人であるパウロの到達した思想でした。
神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。
なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。2:6〜11
しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。3:21〜22
なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。10:13
ところが、次の言葉はこれらの言葉と矛盾するように見えます。
そこでわたしは、あなたがた異邦人に言う。わたし自身は異邦人の使徒なのであるから、わたしの務を光栄とし、どうにかしてわたしの骨肉を奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っている。もし彼らの捨てられたことが世の和解となったとすれば、彼らの受けいれられることは、死人の中から生き返ることではないか。もし、麦粉の初穂がきよければ、そのかたまりもきよい。もし根がきよければ、その枝もきよい。しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。ローマ11:13〜26
二転三転するかのようにパウロはユダヤ人の優位性を語っています。彼らは不信仰のゆえに神様から遠ざけられ、今は神なき民のごとくいますが、これは 一時棚上げということです。時至らば、彼らは異邦人よりもずっと簡単に救いの真髄に復帰すると言っているのです。いわば、ユダヤ人は野球で言えばシード権、テニスで言えばアドバンテージを持っているかのようです。
わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの、また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン。9:1〜5
これがパウロの本音です。そして、その祈りは2000年の時を経て実現しつつあります。今、多くのユダヤ人がイエスはキリストであった、彼らの言葉で言うならヨシュアはメシアであったと認め始めています。驚くことにクリスチャンの伝道によってではなく、直接、神様から啓示を受ける人々も現れています。
一部のユダヤ人が大きな富によって力を得て、世界支配の野望を実現しつつあるかのように見えても、神に付く人々、忠実なレムナント「残された者」たちもまた生まれつつあるのです。世界は最後の仕上げに向けて加速度を増して動いています。そして、神様の御旨は着々と実現しています。