ホームページ・メッセージ080817            小 石  泉

後のものを忘れ


 先々週のことです、8月6日と9日の広島と長崎の原爆の日がありました。少なくなったとは言え、やはり報道される様々な原爆の悲劇の報道を、私は正視できませんでした。あまりに悲惨で、暗い気持ちにしかならず、どうしても避けてしまうのです。
 私たちは過去を振り返ることによってどれほどの利益を得るのでしょうか。温故知新、「古きを尋ねて、新らしきを知る」と言いますが、私は利益を得るより、損失の方が多いと思います。パウロ先生はこう言っています。

わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。ピリピ3:12〜14

 パウロ先生にとって、「後ろのもの」とは何でしょうか。それは栄光と屈辱です。

もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。3:49

 サウロ、後のパウロは名門、ベニヤミン族の出身、高名な師ガマリエルの高弟で将来を嘱望されていたエリート中のエリートでした。今の日本で言えば東大をトップで卒業した人のようなものです。しかし、キリストに出会って、それら全てを失いました。
 それからは迫害、暗殺から逃れ続ける人生でした。しかし、キリストに従うことはそういうことなのです。今の有名なエバンジェエリストたちのように名声と富に溢れているなんておかしい限りです。
 しかし、それらの全てをパウロは「後のものを忘れ」ることに務めています。そして、「前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り」続けたのです。
 私の場合、栄光と呼べる過去はほとんどありません。全ては失敗と後悔です。思い出すと、落ち込むばかりです。思い出すと、前進する力を失います。だから「後ろのものを忘れ」ようとしています。同じように、多くの人々は、過去を振り返りすぎるために前進する勇気を失います。その結果、失望と絶望によって自殺したりします。私たちは意識的に「後のものを忘れ」ることに努めなければなりません。どんなに望んでも、過去を取り戻したりやり直したりは出来ないのです。過去とはまさしく“過ぎ去った”ものなのです。
 それに比べて、前のものはいつも無傷のままで、そこにあります。

あなたのあがない主、イスラエルの聖者、主はこう言われる、「わたしはあなたの神、主である。わたしは、あなたの利益のために、あなたを教え、あなたを導いて、その行くべき道に行かせる。どうか、あなたはわたしの戒めに聞き従うように。そうすれば、あなたの平安は川のように、あなたの義は海の波のようになり、あなたのすえは砂のように、あなたの子孫は砂粒のようになって、その名はわが前から断たれることなく、滅ぼされることはない」。イザヤ48:17〜19

 もう30年以上も前になります。ある夏、奥多摩の多摩川の小さな支流にある滝で遊びました。滝といっても高さ1.5メートルぐらいの小さなもので、4畳半ほどの滝つぼがありました。そこはほとんど人の入らない秘境とも言うべきところで、水は手が切れるように冷たく、そのまま飲めるほどに清く澄んでいました。その滝つぼに入ると、しばらくは心臓が止まりそうなほど冷たいのですが、慣れてくるとこの世のものと思えないほどさわやかでした。やがて私は、流れてくる豊かな水量のかけがえのないほど貴重な水が、惜しげもなく毎秒、毎秒、私の体の周りを通り抜けて去って行くのを、不思議な思いで見ていました。その水は、いつも、いつも新しく、古いものは決してやってこないのです。私は、「何て、贅沢なんだろう」と思いました。
 先ほどの御言葉に、「あなたの平安は川のように」とありました。神の下さる平安は川のように新鮮です。それは、いつも新しく、古いものは決してやってこないのです。毎分、毎秒、神の御手からあなたに送られてくるのです。神の下さる平安は手垢のついた古いものは一つもありません。それなのに私たちは、何と日々、平安を失い、過去の古い平安を思い返してすがりつくことでしょうか。
 過去と未来は、この川のようなものです。過ぎ去った時は、通り過ぎた水のように後戻りしません。後ろの流れは下水のように汚れていたとしても、やってくる新しい未来は、汚れない時なのです。だから「後ろのものを忘れ」なければなりません。
 「一極の将棋」という言葉があります。負けた後から、ああすればよかった。あの手がまずかった、あの手さえ打たなければと後悔しても、終わったものは終わったものです。
 今から32年前、25歳の私は航空会社を辞めて神学校に入りました。それは日本の神学校でした。その時、私はその気になれば米国の神学校にも行けたのです。しかし、なぜだか分かりませんが、当時の私はその選択肢を考えることさえしませんでした。後から考えると、私は米国の神学校に入るべきでした。内容的にも格段の違いがあることが分かったのは神学校を出てかなり経ってからでした。当時は米国までの航空運賃は途方もなく高く、普通の人には夢物語でしたが、私には航空会社職員であった特典から無料のチケットがもらえたのです。時々、もしあの時、米国の神学校に行っていたら、と考えます。今とはずいぶん違った人生になっていただろうと。
 しかし、やはりそれは終わったことです。どんなに惜しんでも、悔しがっても、もう、過ぎ去ったものです。そして、その後の人生で会った人々には会えなかったかもしれないのです。今ある、人々との関りこそ本当に価値あるものです。
 次に「あなたの義は海の波のようになり」という御言葉があります。
 やはり、昔のことですが、九十九里浜の砂浜に座って、波打ち際を見ていました。波は遠くで白く泡立って立ち上がると、砂浜に押し寄せて来ます。そして波打ち際を洗っては去ってゆきます。砂浜に何か文字を書いてもそれを跡形もなく拭いさります。
 その繰り返しを見ているうちに、この波はいつまで続くのだろうと考えました。波は私の存在しない天地創造の昔から、九十九里浜に打ち寄せていたのです。そして、私が存在しなくなる未来まで繰り返し続くでしょう。
 私たちの義もそのようだと聖書は語ります。
 過ぎ去った、時間がどんなに忌まわしく、罪に満ちていたとしても、神の与える義は、終わることなく、毎日、毎時間、毎分、毎秒、繰り返し、繰り返しやってきます。それは砂に書いた文字を消し去るように、あなたの罪穢れを拭い去ります。
 ですから、過去を見つめるのはやめましょう。新しい未来、何も書かれていない新しい紙のような、汚れない水のような、明日が、時間があります。その時間を過去のことを見つめることに使うのはあまりにももったいないではありませんか。まだ、使ってない新しい時間を、新しいことに使いましょう。後ろを振り返る時間はないのです。
 「後ろのものは忘れ」るべきです。これはいつも意識的にしなければなりません。過去を見つめてため息をつくことはサタンにチャンスを与えるだけです。神様の下さった新しい時が、ほら今、ここに、あるではありませんか。