ホームページ・メッセージ080810 小 石 泉
奇跡はお好きですか
最近、アメリカのフロリダ州レイクランドでトッド・ベントレーという伝道者が大きな働きをしているそうです。彼は2001年にEmmaという“女性”の天使の訪問を受け、力と導きを受けているそうです。彼は全身にオカルトの刺青を入れていて、体のあらゆるところにピアスをしています。もちろんそれはキリストに会う前の姿なのでしょう。しかし、刺青はともかく、ピアスを入れ続ける必要はないと思います。
死人のために身を傷つけてはならない。また身に入墨をしてはならない。わたしは主である。レビ19:28
彼の集会では金粉が降り、宝石が現れ、病の癒し、金銭の祝福が与えられるそうです。多くの人々が争って彼の集会に集っています。私はこのことを聞いたとき、それはラスベガスのマジックショーのことかと思いました。オカルトの世界では金粉が降るのは良くあることだそうです。
また、天使には女性と男性の区別はありません。(但し、堕落天使《悪霊》は地上で性別をとることが出来ると元サタン礼拝者だったシスコ・ホイーラー姉が言っていました。)
イエス様がこう言っています。
復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。マタイ22:30
それにしても、なぜ、人々は奇跡を求めるのでしょうか。最近になって、特にこのような“神の力の現れ”とか“聖霊の御業”というのが盛んに言われるようになったのはなぜなのでしょうか。一方で、聖書の御言葉を静かに学ぶとかクリスチャンとしての歩みへの努力などがないがしろにされているように感じます。
今起こっていることは、ほとんどオカルトの世界にあることです。例えば人を倒すのは気功術と変わりません。私は、ベニー・ヒンは気功術を使っていると思います。これは魔法、魔術と同じレベルのものです。神様は魔法、魔術を極度にお嫌いになります。彼らは魔法、魔術と言わないだけです。
あなたがたは何をも血のままで食べてはならない。また占いをしてはならない。魔法を行ってはならない。レビ19:26
あなたがたは口寄せ、または占い師のもとにおもむいてはならない。彼らに問うて汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。19:31
男または女で、口寄せ、または占いをする者は、必ず殺されなければならない。すなわち、石で撃ち殺さなければならない。その血は彼らに帰するであろう。20:27
ヤコブには魔術がなく、イスラエルには占いがない。神がそのなすところを時に応じてヤコブに告げ、イスラエルに示されるからだ。民数23:23
これらの“エバンジェリスト”たちは、神からの言葉といいながら、実は自分の言葉を語っています。
主はわたしに言われた、「預言者らはわたしの名によって偽りの預言をしている。わたしは彼らをつかわさなかった。また彼らに命じたこともなく、話したこともない。彼らは偽りの黙示と、役に立たない占い、および自分の心でつくりあげた欺きをあなたがたに預言しているのだ。エレミヤ14:14
あなたがたはむなしい幻を見、偽りの占いを語り、わたしが言わないのに『主が言われる』と言ったではないか。エゼキエル13:7
これらのエバンジェリストたちに特有なことは非常に金銭にこだわることです。トロント・ブレッシングの指導者ロドニー・ハワードブラウンが日本に来たとき、全ての説教が献金に関することでした。
それゆえ、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、あなたがたが、人々を鳥を取るようにわなをかけたのろいのひもに立ち向かう。それらをあなたがたの腕からもぎ取り、あなたがたが鳥を取るようにわなにかけた人々を、わたしが放す。13:20(新改訳)
彼らに共通する“出し物”は、人々を倒すことです。ベニー・ヒンや他のエバンジェリストたちが手を振ると会衆が一斉に倒れます。また壇上で額に手をかざすと後ろに倒れます。このことについて、元サタン礼拝者で占い師であったデイヴィッド・メイヤー師は彼の機関紙に興味深い御言葉を記しています。
それゆえ、主の言葉は彼らに、教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則、ここにも少し、そこにも少しとなる。これは彼らが行って、うしろに倒れ、破られ、わなにかけられ、捕えられるためである。イザヤ28:13
倒れたからどうというのでしょうか。そんなことは聖書にありません。本当にこれらの奇妙な出し物で人々は騙され「わなにかけられ、捕えられて」います。
アメリカでも大きなペンテコスト派のある団体の年次総会に出席したことがあります。そこに有名なパースリーというテレバンジェリスト(テレビ伝道者)がメインスピーカーとして招かれていました。彼は話し始めるや、講壇の上に聖書を置き「聖書はもういいです。我々に必要なのはパワー(力)です。」と言い、「パワー!パワー!パワー!」と壇上を叫びながら走り回りました。人々の中には倒れるもの、叫ぶもの踊りだすものが現れました。私のすぐ前の少年は引きつったように、踊り出しました。全ては不気味で到底、聖霊の導きとは思えませんでした。私たちはすっかりいやになって出口を出ると沢山の人々がやはり続々と出てきました。その時、本当にほっとしました。
私たちにとって必要で十分なものは聖書です。
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。Uテモテ3:16〜17
どうして、あんなに奇跡を求めるのでしょうか。ああいう人々は聖書さえ十分に読んだこともないでしょう。聖書の中にはクリスチャンに必要な全てが入っているのです。まず、聖書を何度も何度も熟読してください。そこには、金に勝る、宝石に勝る富があります。
わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。
そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。
恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。
神と人との前に好意と聡明を得よ。心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。
それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。
あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。
そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。箴言3:1〜10
歴史上、多くのクリスチャンたちが信仰によって勝利を得てきました。
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。ヘブル11:1〜6
なぜ、神の現われをそんなに求めるのでしょうか。そんなに安っぽく神を見たいと思うのでしょうか。信仰とは見ないで信じることだと書かれているではありませんか。
彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。11:27
私たちは、見えない方を見ているように信じることを期待されているのです。信仰とは奇跡を見ると成長するものではありません。むしろ見えないものを見ているように信じるときに成長するのです。こんなことは、改めて言う必要がないほど当たり前のことです。
そして、私たちを救う、キリストの贖いに勝る奇跡はありません。
あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。Tペテロ1:18〜19
主イエスが命を掛けて救った、あなたの魂を、恥知らずな見栄坊たちが悪霊に導かれて起こしている“リバイバル”など、求めてはなりません。それは永遠から目をそらさせ、瞬時の満足を与えようとするサタンのわなです。静かに神と対座し永遠を思ってください。神は永遠の命を与え、サタンは刹那の満足を与えるのです。
静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる。詩篇46:10
神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。伝道の書3:11