ホームページ・メッセージ080803 小 石 泉
祝福の秘訣
数年間、日本にある韓国系の教会に通っていた姉妹から、時々、韓国人教会のすばらしい長所を教えられます。お断りしておきますが、私は韓国人教会の欠点も知っています。しかし、それらの欠点を越えて、日本人教会が絶対に学んでほしい長所もあります。
まず、彼らの牧師や伝道者など聖職者への徹底的な尊敬と従順に学ばされます。彼らは神に仕える特別な職務に預かる人として敬い、従うのです。しかし、日本の教会では牧師に対して時には軽蔑としか思えない行動もあることを沢山見てきました。(私にではありません)聖職者も人間ですから、失敗も欠点もあります。しかし、韓国では人間ではなく職務を尊ぶようです。その結果、確かに彼らは神の祝福に預かっています。韓国の教会があのように成功したのは、このような背景があったからでしょう。もちろん、行き過ぎもまた非常にあることも私は知っています。
最近、教えられたことは、韓国人のクリスチャンが何かの祈りをするとき、例えば、誰かの救い、病気、入学、就職、結婚などのために特別な祈りを必要とするとき、同時に、それが実現するまで一定の献金をするということです。これをある教会では一千燔祭、二千燔祭と呼ぶそうです。燔祭とは旧約聖書で動物を捧げて焼き尽くす儀式です。私は今まで、こういう献金の仕方を聞いたことはありませんでした。また、こういう祈りがあると言う事を聴いたことも、したこともありませんでした。
そして考えさせられたのです。それは、祈りというものの性質です。私たちが祈るとき、そこには不確かさへの漠然とした疑問があります。この祈りは、答えられるだろうか? 聞かれるのだろうか? しかし、祈りに献金が伴うと、切迫感が違います。絶対に答えられるのだという意志が感じられます。
祈りは、いわば家を建てるときの設計図のようなものです。このような家を建てたい。間取りはこうで、玄関はここで、台所にはこれを置いて。しかし、設計図は具体化されているものではありません。私たちは土地を買い、そこに縄を張り、杭打ちをして家を建てる具体的な行動をします。祈りに伴う献金はこの杭打ちのようなものです。そこには具体性と真剣さが伴います。そこには私たちの関心と心が置かれます。
あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。マタイ6:21
とある通りです。
また、献金するとき、必ず新札を用意するそうです。それは、神へのささげものに、
小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。出エジプト12:5
とあるからだそうです。
単純と言えば単純ですが、このように幼子のような純粋さは美しいと言えるでしょう。もっとも毎週新札を用意するというのも実際はかなり大変なことで、それだけ心遣いをするということにもなります。それも祈りの一部といえるでしょう。
また、聖職者をもてなしたり、贈り物をする場合も、かなり無理をして最高のものを準備します。それは、
あなたがたへのすべての贈り物のうち、それぞれ最上の部分で聖別される分のうちから主へのすべての奉納物を供えなさい。民数記18:29
あなたの土地の初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。出エジプト23:19
とあるからです。もちろん聖職者が神ではありませんから、これをストレートに表現するのも考えものですが、自発的にそう思うなら美しい行為でしょう。ただ、ここにも、これが律法となって、苦しむ人々がいる場合があることも知っています。また、聖職者がおごり高ぶって傲慢な独裁者になるようなケースや、高級デパートの顧客名簿の上位に牧師夫人が名を連ねるというような話も耳にしました。まさかとは思いますが。しかし、原則的には 韓国の教会は次の御言葉を文字通りに受け取っているのでしょう。
与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。ルカ6:38
神に「与える」というのも、失礼な話ですが、これは贈るという行為の原則で、対象が人でも神でもそれは変わらないのです。聖書には、こういう御言葉もあります。
私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。Uコリント9:6
神様は捧げても捧げなくても、私たちを祝福したいのです。
あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたをふやし、主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われた地で、主はあなたの身から生まれる者、地の産物、穀物、新しいぶどう酒、油、またあなたの群れのうちの子牛、群れのうちの雌羊をも祝福される。申命記7;13
しかし、献金は人から神への献身の表れですから、神御自身を感動させます。
それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」マルコ12:41〜44
レプタとは100円ぐらいのささやかなお金です。このやもめはその日の生活費である200円を捧げたのです。そして、その日は断食したのでしょう。彼女は毎日レプタ二つを捧げたわけではないでしょう。そんなことをしたら死んでしまいます。しかし、この日だけはその全てを神様に捧げたのです。この行為を主イエスは知っていました。献金とはこのような崇高な行為であるのです。 さらに献金には驚くべき祝福の約束があります。
人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――。マラキ3:8〜10
この御言葉に驚かされるのは、「盗んでいる」という言葉です。収入の十分の一は神のものだというのです。これは聖書の古くからの原則で律法ではありません。律法はモーセからですが、十分の一はアブラハムの時代にもすでにありました。これはイスラエル民族が選民である証拠となりました。
十分の一は種です。農夫はその年の収穫の中から最善の実りを来年のために取っておきます。種を食べてしまったら来年蒔く物がありません。同じように十分の一によって私たちは神と結びつくのです。この捧げものには驚くべき祝福が約束されています。「わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」。これは圧倒的な約束です。
間もなく終わりの時代にクリスチャンは深刻な事態に直面します。
それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。黙示録13:15〜18
獣といわれるサタンの子が現れると666という数字を右手か額に刻印しなければ「買うことも、売ることもできない」ことになるのです。スーパーに行ってもこのマークがなければ買うことが出来ません。では私たちは飢え死にするしかないのでしょうか。私は十分の一献金をしているなら「天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐ」という約束には絶対に変更はないことを信じています。しかも、聖書の中で一度だけ「わたしをためしてみよ」と書かれています。聖書は神を試してはならないと言っているのです。
あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。申命記6:16
問題は、夫婦で配偶者がクリスチャンでない場合です。これを相手に理解してもらうのはなかなか難しいでしょう。そういう場合には、私は二十分の一か、自分に自由になる金額の十分の一を捧げればいいと思います。また、税金などを引かれる前か、後かという問題があります。ある先生方は税金を引かれる前だと主張します。しかし、私は手元に入った額だと思います。もしスエーデンとかスイスの場合どうしますか? 税金が50%のスエーデンような国では手元に残る金額の五分の一以上になるでしょう。また、今はどうか知りませんが、スイスなら、すでに政府が強制的に教会税という名で十分の一を引いているのです。もちろん自分でよいと思われたらどうしようとかまいませんが。
韓国がまだ貧しかったころ、ある家にまとまったお米が与えられました。そのお米の十分の一を捧げるかどうか、彼らは相談しました。せっかくやっとお米が食べられるのだからという意見もありましたが、結局、彼らは十分の一を教会にもって行きました。その後、不思議なことが起こりました。米櫃の米がかなりの間、減らなかったのです。
また、ある主婦が、残りわずかなお金を持って教会の伝道集会に来ました。そこではある伝道者が十分の一献金の祝福を語っていました。そして彼はこう締めくくりました。「もし、あなたが十分の一を捧げて祝福されなかったら、私が払います」。それからしばらくして、その伝道者がもう一度その教会に招かれました。集会の後で、一人の婦人がその伝道者を訪ねてきました。「先生は前に来られたとき十分の一の祝福を語られましたね」「はい語りました」「その時、もし祝福されなかったら、私が払うといわれましたね」。その先生は少し青ざめて「はい、言いました」。「先生の、おっしゃる通りでした、私は手持ちのお金の十分の一を捧げ、その残りでクッキーを焼いて売りました。今、ソウルでも最大級のケーキ屋をしています。あのお話は本当です」。彼女はケーキを持ってきました。そのケーキの下には当時でも100万円の献金が置かれていたそうです。
クリスチャンの場合、十分の一献金は強制ではなく祝福への提案です。