ホームページ・メッセージ080727 小 石 泉
主よ、いつまでなのですか
先日、近くの老人ホームから一人の老婦人が訪ねてこられました。この方は、浜松出身で、私が少年時代、浜松にいたことを知って訪ねてこられたのでした。私たちは数時間、話し合いましたが、懐かしい地名や店の名前などが次ぎから次に出てきて、楽しいひと時でした。しかし、その方の語る戦争体験は恐ろしく凄惨なものでした。
その方のお父上は静岡大学工学部(かなり高度な学部です)の教授で、広沢と言う高級住宅地に広い庭のある家を持っておられました。彼女は学徒動員で日本楽器の工場で働いていました。当時は楽器ではなく兵器を作っていたのです。ある日、爆弾の雨が降り注ぎましたが、彼女は幸運にも会社の幹部のための防空壕に入ることが出来て命拾いをしました。友人たちは皆、死んでいました。家に帰ってみると、家は瓦礫の山になっていたそうです。防空壕が二つあって一つには妹と弟が入り、何とか生きていましたが、もう一つの防空壕は爆弾の直撃で大きな穴が開いていてお母さんの姿がありません。お父さんと探すと幾つもの肉片が散らばっています。お父さんは「お母さんが居なくて、この肉片があったのだからお母さんは死んだのだね」と言い、肉片を集めてお寺の墓地に埋めたそうです。
やがて夜になると、雨が降ってきました、しかし、お父さんは「これは雨ではない、ガソリンだ、間もなく焼夷弾が降ってきて火の海になるから、お前たちはあの広場に逃げなさい」と言って、天皇陛下の御真影(写真)を守るために大学に向かったそうです。当時は子供の命より、天皇の写真が大切だったのです。やがて本当に焼夷弾が降ってきて、浜松の市街は火の海になりました。彼女たちはお父さんの言われたとおり広い空き地に逃げて無事でした。翌日、無数の黒焦げになった死体を見たそうです。淡々と語られるのですが、私は血の凍る思いでした。それにしても、武器も持たない非戦闘員をただ殺すためにこのような残虐な行為が許されるものでしょうか。
しかし、お父さんは「これは戦争なんだよ。誰も恨んではいけないよ。」と諭されたそうです。立派な方だったのですね。その婦人も抑制の効いた、穏やかな方でした。彼女は戦後、警視庁で犯罪者の相談員として長く勤められたそうです。
私は、当時は5歳ぐらいで、浜松に行ったのも戦後だったので何も知りませんでした。ただ艦砲射撃の後にできた、大きな穴で遊んだ覚えはあります。
それにしても人間は何時までこんな愚かなことを続けるのでしょうか。第二次世界大戦の後も世界に戦火の絶えたことはないし、凄惨な殺戮と、悲惨な報告が絶えたことはありません。神様はいつまで人間のこのような行状を黙って見ておられるのでしょうか。
それは人間が次のように言うときまでです。
私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。ホセア6:3
人間の全てがこのように言うことは無いでしょうが、もし、途中で神様が人間の世界に介入されたら、人間はきっとこう言うでしょう。「あなたが手を出さなくても、我々でできたのだ。我々は十分賢いのだから」と。「人類の英知は世界を導くだろう」というようなことが言っている限り、神様は介入したくても出来ないのです。人間は、
私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。哀歌3:40
と言うべきです。しかし、私たちの周りを見回しても、そんな言葉は到底期待できません。だからまだ神様の介入は先のことでしょう。それまでには、もっと多くの悲劇ともっと厳しい悲惨があることでしょう。
よく、日本に国家的なリバイバルが来ると言う話を聞きます。私は信仰を持って50年になりますが一度もそんなことはありませんでした。もちろん個々の教会や、グループが飛躍的に前進することはあるかもしれませんが、日本の国家的なリバイバルなど、このままでは絶対にありえないと思っています。こういう馬鹿げた話を流言飛語というのです。
韓国のキリスト教徒が人口の30%なのも、中国の支配、日本の支配、朝鮮戦争の悲劇から、最後に頼れるものとしてキリスト教があったからです。中国のキリスト教が人口の10%というのも、西洋列強の支配、日本の侵略、国共の内乱(蒋介石の国民党と毛沢東の共産党の戦い)、その後の文化大革命を経験して、徹底的に痛めつけられ、全ての偶像が一掃され、頼れるものが無くなって、キリスト教だけが廃墟に残ったからです。このまま、のほほんと日本にリバイバルなどくるはずがありません。
太平洋戦争後、教会には人々が溢れました。しかし、間もなく日本が豊になると、潮が引くように居なくなりました。韓国でも中国でも経済発展と共に教会員が減少するようです。人間は豊になると神を求めず、金の神マモンを求めるのでしょう。日本にリバイバルがくるとすれば、それは、悲惨で痛切な体験の後でしょう。日本に限らず、世界中で次のような叫びがあげられなければなりません。
主よ、いつまでなのですか。とこしえにお怒りになられるのですか。あなたのねたみは火のように燃えるのですか。詩篇79:5
戦争も災害も神様の望まれるものではないのです。黙示録にあるすさまじい破壊と悲惨は、人間の高慢に対する、神様の涙の鞭です。人間に与えた自由と言う賜物を履き違えて歴史を築いてきた人間へのやむを得ぬ措置です。そして、すべての人が、
さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。ホセア6:1
と、言うときまで世界はこのまま人間のめちゃくちゃなやり方で進むでしょう。
私たちに必要なことは、神の前にへりくだることです。神の前に頭を垂れ「主よ、罪人の私をお許しください。あなたのなさることは全て正しいのです。」と言わなければなりません。人間全体が神に逆らっても、あなただけは、塵のように灰のように自分を神の前に出てください。哀れみを求めて、涙を持って御顔を仰いでください。そのようにしてやっと神の前に正しいものとされるのです。正しいから正しいとされるのではなく、罪人なのに正しいと見なされるのは、ただへりくだって神の前に悄然と立つときだけです。あの婦人のお母さんの肉片のようになって。
聖書に二人の王の話があります。一人はイスラエルの王アハブ、もう一人はユダの王マナセです。共に非常に悪い王様でした。しかし、彼らが神の叱責を受けたとき、二人とも悔い改めたので、神様は許されたのです。
また、イゼベルについても主はこう仰せられる。『犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。』アハブに属する者で、町で死ぬ者は犬どもがこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。」アハブのように、裏切って主の目の前に悪を行なった者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。彼は偶像につき従い、主がイスラエル人の前から追い払われたエモリ人がしたとおりのことをして、忌みきらうべきことを大いに行なった。アハブは、これらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に荒布をまとい、断食をし、荒布を着て伏し、また、打ちしおれて歩いた。
そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような主のことばがあった。「あなたはアハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間は、わざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」T列王21:23〜29
あらゆる罪を犯したアハブが「これらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に荒布をまとい、断食をし、荒布を着て伏し、また、打ちしおれて歩いた」のです。「打ちしおれて」いる姿を見て、神様は許されました。また、ユダの王マナセも同じでした。
マナセは十二歳で王となり、エルサレムで五十五年間、王であった。 彼は、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行なった。彼は、父ヒゼキヤが取りこわした高き所を築き直し、バアルのために祭壇を立て、アシェラ像を造り、天の万象を拝み、これに仕えた。彼は、主がかつて、「エルサレムにわたしの名がとこしえにあるように。」と言われた主の宮に、祭壇を築いたのである。こうして、彼は、主の宮の二つの庭に、天の万象のために、祭壇を築いた。また、彼はベン・ヒノムの谷で、自分の子どもたちに火の中をくぐらせ、卜占をし、まじないをし、呪術を行ない、霊媒や口寄せをして、主の目の前に悪を行ない、主の怒りを引き起こした。さらに、彼は自分が造った偶像の彫像を神の宮に安置した。神はかつてこの宮について、ダビデとその子ソロモンに言われた。「わたしは、この宮に、わたしがイスラエルの全部族の中から選んだエルサレムに、わたしの名をとこしえに置く。もし彼らが、わたしの命じたすべてのこと、わたしがモーセを通して与えたすべての律法とおきてと定めとを、守り行ないさえするなら、わたしは、もう二度と、わたしがあなたがたの先祖たちのものと定めた地から、イスラエルを取り除かない。」しかし、マナセはユダとエルサレムの住民を迷わせて、主がイスラエル人の前で根絶やしにされた異邦人よりも、さらに悪いことを行なわせた。主はマナセとその民に語られたが、彼らは聞こうともしなかった。そこで、主はアッシリヤの王の配下にある将軍たちを彼らのところに連れて来られた。彼らはマナセを鉤で捕え、青銅の足かせにつないで、バビロンへ引いて行った。しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、
神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。U歴代史33:1〜13
マナセは偶像バアルの祭壇を築き、自分の子供たちを火で焼いて捧げ、占いをし、偶像を神の宮に安置すると言う、想像を絶する罪を犯しました。しかし、アッシリヤに国を滅ぼされ、バビロンに幽閉されたとき、「悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈った」ので「神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された」たのです。何という寛大さでしょうか。あなたは、「私はそんな罪は犯していない」というかも知れません。しかし、ここで認識していただきたいのは、へりくだるとき神は許す、いや許さないではおられない方だということです。
わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。ホセア11:8
これこそ、私たちの信じる神の実像です。愛の神に受け入れられるのは、ただ“へりくだる”ことです。悔い改め、へりくだる前でさえ、神の胸は熱くなっているのです。
神よ、いつまでなのですか? 実はあなた個人は、へりくだるなら、いつでも神の前に許され、受け入れられ、救われるのです。人間全体はもうしばらくかかりますが。