ホームページ・メッセージ080720 小 石 泉
聖書の中の教会史
聖書の中には、教会の歴史の預言と思われる御言葉があります。一番有名なのは黙示録の冒頭の七つの教会です。エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデスフィア、ラオデキアの教会へのメッセージが、その後の教会の歴史を暗示していると思われるのです。そして、意外と知られていないのは、マタイの福音書にある御国の七つの説明が、やはり教会の歴史を預言していると思われることです。
ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。マタイ13:18〜:23
ここは主イエスが福音を伝える姿を表していると思われています。確かにそうなのですが同時に福音の始まり、主と弟子たちとさらにその弟子たちによる、初代教会の姿でもあるようです。福音の種は蒔かれ、次第に世界に広がっていきました。
イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』13:24〜30
教会が力強く発展すると共に、サタンもやってきました。サタンは神学的に攻撃を始めました。特にキリストの神性に対する攻撃は熾烈を極めました。最大のグループはエビオン派といい、キリストは神ではなく普通の人であり、ただ特別な使命と力を与えられただけだと主張しました。一方でキリストは神であって普通の人に一時的に宿っただけだという主張もありました。この両方の異端は教会を長く激しく痛めつけましたが、紀元三二五年のニカイア総会議で否定されました。しかし、この論争は今に至るまで色々な形で現れてきます。キリストは神であって人であるのです。そして今は聖霊としてこの世に居られます。ほとんどの異端は必ずこのような三位一体を否定します。
これに対して、イエス様は毒麦を抜かないで収穫の時期まで育つままにしておきなさいと、一見、歯がゆい指導をされています。しかし、毒麦を抜くと良い麦にも影響を与えることがあるのと、そういう行動の中に、憎しみや攻撃性というクリスチャンにふさわしくない資質が生まれてくることがあるからでしょう。いろいろな異端を見るとき、何とかしたいと思うのは人の思いですが。
二〇年ぐらい前に、船橋の私たちの教会の近くにエホバの証人の集会所が出来て、毎週数百人の人々が集っていました。私の中の肉的な思いでは、悔しくて、危険なこの異端を何とかしたいと言う願いがありました。それから私はビラを貼るとか、彼らに語りかけるとかはしませんでした。毎朝、犬と散歩するときに、その前を通り、心の中で「エホバの証人の霊よ、イエス・キリストの名によって命ずる、ここから立ち去れ」と祈りました。それから間もなく、その集会所は閉鎖され、遠いところに移転しました。私はエホバの証人をつぶすことは出来ません。それは神様の主権の中にあります。しかし、自分に降りかかったら、除くように行動します。毒麦を抜くことはしませんが。
イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」13:31〜32
これは教会が急速に発展していった時代を表していると考えられます。一方で激しい迫害の時代でもありました。しかし、もう一つは、見えない形で現れました。空の鳥が来てその枝に巣を作ると言うのは、やはりサタンが教会の中に忍び込んだことでしょう。
イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」13:33
ここはキリスト教がローマで公認され、同時に腐敗して行った時代です。ローマカトリックが権勢を振るい、現世の王や貴族までが服従した時代です。ここでは真の福音はほとんど姿を消し偽りと虚栄が教会を支配しました。
天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。13:43〜44
やがて、隠された宝を見つける人々が現れました。宗教改革者たちです。彼らの中には持


ち物全部どころか命までも失う人々が居ました。チェコのヤン・フスは聖書をチェコ語に翻訳したために生きながらに火で焼かれました。サボナローラもその他の多くの無名の人々が隠された宝、本当の福音を見つけてその犠牲を払いました。それがマルチン・ルターやカルビンの改革となって行きました。黙示録にはサルデスの教会に対して次のような記述があります。
ヤン・フス サボナローラ
しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。3:4
これは非常にダイレクトに宗教改革者を預言していると考えられます。
また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。13:45〜46
ここは宗教改革の後に福音が爆発的に世界に宣教されていった時代のようです。世界の人々は飢え乾いていました。そして良い真珠を争って求めたのです。
黙示録ではフィラデルフィアの教会に対してこう言われています。
わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。3:8
「誰も閉じることの出来ない門」とは何と言う適切な表現でしょうか。一九〜二〇世紀は正に大宣教時代でした。アメリカには歴史上最大最高のキリスト教が栄えました。今は空の鳥が巣を作り、疲弊し尽くしていますが。
また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい。」とイエスに言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」13:47〜52
これはまあ何と現代のキリスト教会を巧みに表していることでしょう。二〇世紀後半からキリスト教は、マス、大量動員を誇るようになりました。何千人、何万人の教会。何十万人が集まった伝道集会。テレビを通して何百万人に。大きいことは良いことだ。まるでエンターティンメントです。しかし、イエス様はその中に良い魚も悪い魚も一緒くただと言われます。そして終わりのときに、御使いが来て正しい者と悪い者とを選り分けると言われます。
アメリカに行ったとき、24時間キリスト教の番組をやっている局がありました。多くのエバンジェリストが入れ替わり立ち代り現れますが、みんな良く似た構成で、まるでロックやフォークのリサイタルのようで、結局、最後はここに献金を送ってくださいです。
先日、ジーザス・フェステイバルと言うのを見に行きました。日本では珍しく多くの人が集まっていました。しかし、そこで大いにアピールされたのはジーザスではなく、偉大なるXXX先生でした。ジーザスはどこに居るのだろうと思いました。
この終わりの時代の教会を、黙示録ではラオデキアの教会として表しています。
わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。3:16〜18
一見豊かで何不自由の無いように見えて、実はどこの時代にも言われていない叱責、それは生ぬるいことです。華やかな教会の中身は熱くもなく冷たくもない。そして実は何も見えていない、盲目です! これは主イエスのお言葉です。しかし、この教会にはすばらしい約束があります。
すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。3:19〜21(口語訳)
しばしば弟子達がそうであったようにイエス様が食卓に招いてくださるのです。あの、復活の後にガリラヤ湖で主イエスが漁に出ていた弟子たちを招いて、パンと魚が焼かれていたように、私たちも主と共に食事をします。そして「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう」と約束されています。今は、サタンの惑わしが最も激しいときでもあります。しっかりと目を覚まして、その食卓に着きましょう。