ホームページ・メッセージ080706            小 石  泉

キリストの花嫁


  昔、こんな賛美歌がありました。(今は変えられています。)

   1.愛のみ神よ 御前に立つ この妹と背を恵み祝し
     いと麗しき 愛の衣 装わせたまえ とこしなえに
   2.(忘れたので中略)み教会は 君が血をもて 買いたまいし 
     花嫁たちの集まりなり

 この賛美歌には、とてつもない誤りがありますが判りますか? それは「花嫁たち」という言葉です。聖書には「キリストの花嫁」という言葉はありますが、「キリストの花嫁たち」という言葉は一箇所もありません。
 これは意外に誤解されているのですが、クリスチャンは個人々々が「キリストの花嫁」ではありません。歴史上の全てのクリスチャンの総合体が「キリストの花嫁」なのです。個人々々のクリスチャンは花嫁の、部分、もっと言えば細胞です。
 この最も顕著な誤りはカトリック教会のシスターたちです。彼女たちが着ている衣装は花嫁衣裳だと聞いたことがあります。私の知識に誤りがなければ、彼女たちはキリストの花嫁なのでウエディングドレスを着、一生独身の誓いを立てるのだそうです。キリストは究極の一夫多妻なのですか? では、男性の神父さんは何なのでしょうか? 

私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。黙示録19:7〜8

Let us rejoice and be glad; let us praise his greatness! For the time has come for the wedding of the Lamb, and his bride has prepared herself for it.19:7(TEV)

 ここで「花嫁」は単数形であって複数形ではありません。

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。21:1〜:2

 また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。21:9〜10

 ここでは、「小羊の妻である花嫁」は「新しいエルサレム」と呼ばれています。ですから通常の人間同士の結婚の姿とは全く違うことが判ります。
  さらに、この「新しいエルサレム」は“天から下って来る”ので、地上から昇って来るのではありません。クリスチャンたちは終わりの日に一旦、天に集められ、そこで光り輝く、美しい花嫁に造られて天から下ってきます。私たち一人ひとりは、その細胞、新しいエルサレムのレンガのように組み合わされて命に満ちます。現在の教会もすでにそのように命の有機体なのです。教会は、こうして宇宙を越えて溢れる栄光に輝くことでしょう。

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。エペソ1:23

 ここでは教会は「キリストのからだ」と呼ばれています。色々な呼び方が使われているのは、人間の言葉やイマジネーションでは絶対に判らない神秘だからでしょう。聖書の記者は、少しでもその姿を伝えるために、非常に苦労しているように見えます。
 数年前、私は奇妙な会社の名前を耳にしました。それは「ビー・ブライズ」と言うものでした。もし英語に直せばBe Bridesと言うことになるでしょうか。直訳すれば“花嫁たちであれ”と言うことになります。私は即座に、これはある宗教団体の会社だと思いました。その宗教団体では、信徒の特に女性たちは教祖のBridesだからです。何と汚らわしい名前でしょうか。
 キリストの花嫁は歴史上の、全ての真のクリスチャン何十億、何百億人の集合体です。「光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」とあるように清い、汚れない花嫁なのです。

都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。21:11〜27

 この都、新しいエルサレムは単なる比喩的なものではなく実際の大きさがあります。都は一辺が四角形でその長さは12000スタディオンとあります。1スタディオンは約185メートルなので約2230キロメートルです。大体、日本列島ぐらいの大きさの立方体と考えられます。城壁の高さは144ペーキュスとあり、1ペーキュスは約50センチなので72メートルです。人間の尺度とあり、それは天使の尺度でもあるというので天使と人間は同じ大きさだと判ります。
 この都の門は、何とイスラエルの十二部族の名がついています。そして城壁の土台石には十二使徒の名があります。このことから、この都を構成するのは、キリストの花嫁の教会だけではなく、旧約聖書の聖徒たちも含まれていることがわかります。新約の教会はこの世に来られたキリストによって救われ、旧約の聖徒たちは、これから生まれてくるキリストによって救われていたのです。この都はそれ自体が花嫁であり、聖徒たちの住まいのようでもあります。

その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。 こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。21:18〜27

 この都は豪華この上ないものですが、不思議なことに「諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。」とあるのです。この都は天から降りてきてどこに止まるのでしょうか。諸国の民とか地の王たちが来るとあるので、地球上なのでしょうか。ヨハネは「この都の中に神殿を見なかった。神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」と書いています。現実なのか比喩なのか、物質世界なのか霊的世界なのか、不思議で理解できません。「すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。」とあるので、いわゆる天国と言う場所ではなさそうです。物質世界の要素もあるように見えるのです。そしてこれは確かにキリストの花嫁のはずです。しかし、どうも私たちの想像を超える不思議な世界です。世の中のファンタジーやメルヘンと違って、神の存在による安心と清さ、目的の確かさなどが心を捕えます。

御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。22:1〜5

 都は花嫁だけではなく、それ自体が大きなセンターとなり神の祝福の源となるのです。間もなく私たちはそこに行き、そこを構成する一員となり、神とキリストともに住むのです。その日が待ち遠しいですね。