ホームページ・メッセージ080608            小 石  泉

神の裁き


そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。ヘブル9:27 〜28

 人は必ず死にます。それは誰でも判っています。しかし、聖書は死後に裁きを受けることも定まっていると言っています。多くの人々は、そんなことは信じません。馬鹿馬鹿しいたわごとだと言うのです。しかし、神の裁きは必要です。私たちは毎日毎日恐ろしい犯罪を見聞きしています。五人殺しても、十人殺してもその犯人一人が死刑になれば終わりです。これは不条理です。あるいはもっとひどいケースもあり、そして、必ずしも人間の裁判官が確実な裁きを出来る保障はありません。また、決して裁きを受けない完全犯罪のようなケースもあります。
 ある日、全ての人は神の前に出て、神の正しい裁きを受けます。このような思想がなければこの世に正義というものは存在しません。

また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。黙示録20:11〜15

 これはおとぎ話でもなく、単なる宗教説話でもありません。間もなく必ず起こることです。昔のヨーロッパの人々はこのような神の裁きを信じていたので、正しく生きようとしたのです。ところが最近は、これをあざけり、嬉々としてサタンに仕える人々が非常に増えています。人の命はせいぜい八十年です。そうして死を迎えるとき、彼らはどんなにあわてることでしょうか。フランス革命の時、無神論者で百科事典派といわれたヴォルテールは、「神などいない。私の生きているうちに聖書を地上から消滅させる」と言っていましたが、その死に際してあわて惑い、神に救いを求めて断末魔の悲鳴を上げながら死んでいったといいます。その死後、彼の家がイギリス聖書協会の倉庫になったのは皮肉です。
 ところで、聖書にはこの裁きに合わない道が示されています。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。ヨハネ3:16〜18

 「御子を信じる者はさばかれない」のです。これは、いわゆる「最後の審判」のことだと私は理解しています。クリスチャンは「最後の審判」に会いません。クリスチャンでもその事を理解していないで「最後の審判」に会うと考えている人がいますが、神がそのひとり子を十字架につけて救い出した人々をもう一度裁くなどと言うことはありえません。御子の死が無駄になってしまいます。御子の死はそれほど尊く、力あるものなのです。

 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」
マタイ25:31〜46

この箇所は広く誤解されています。一般的には弱いものへの善行の意味に受け取られています。しかし、よく読むと、それは主イエスが「私の兄弟」と呼ぶ人々への取り扱いに関して裁かれているのです。つまり、ここには主イエスと羊と山羊のほかに「私の兄弟」という人々のグループもいるのです。それでは主が「私の兄弟」と呼ぶ人々は誰でしょうか。

それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」マタイ12:49〜50

 「私の兄弟」とはキリストを信じ受け入れた人々のことです。すなわちクリスチャンです。ですからあの箇所で羊に分けられた人々はクリスチャンや善行をした人々ではなく、クリスチャンに対して取った態度によるのです。クリスチャンは裁かれないのです。
 しかし、ここで問題が発生します。クリスチャンでなくとも救われるのですか? 「わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」とあるのですから。クリスチャンでなくとも救われるのでしょうか。
 恐らくこの救いはクリスチャンの救いとは違うと思います。クリスチャンは「御子の体なる教会」「小羊の花嫁」「新しいエルサレム」です。御子とは一心同体の関係にあります。自分の花嫁を裁く花婿はありえません。
 ただ、私はここから新しい教理、神学を作る気持ちはありません。他の箇所で同じ思想が保障されていないからです。少なくとも2つ以上の御言葉の保障が必要です。ただ、神様がちらりと見せてくださった、未来の光景と思いましょう。
 いずれにしても、神はすべての人を裁きます。しかし、御子の血によって贖われた、教会に連なるクリスチャンは裁かれないのです。永遠に。