ホームページ・メッセージ080525              小 石  泉

クリスチャンと争い


キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。1ペテロ2::2:2〜23

 あなたがどうしても、誰か、特に未信者と争うことになったとき、この御言葉を思いましょう。誰かがあなたをののしり、あしざまに、あることないこと、嘘八百を並べ立てて、あなたを責め、言葉を研ぎ澄ましてあなたを刺す様なことがあっても、それ以上に悪口を言うことはクリスチャンには得意な分野ではありません。クリスチャンが、悪に対して悪で対抗することが上手く行くはずがありません。主は「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せにな」ったのです。

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」ローマ12:19

 「自分で復讐してはいけない」とは何と明白な命令でしょうか。私たちはこのことを深く心に刻む必要があります。不都合なことや、わなに掛かったり、「そんなことではないではないか」と言い返したいときでも、神様が「復讐は私がする」といわれる言葉を噛み締めて耐えましょう。また、主はこうも言っておられえます。

聞いて悟るがよい。口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである。マタイ15:10〜11

 相手を下品な言葉や、うそ偽りでののしるとき、実は自分を汚しているのです。その人の品性が表れるだけではなく、一層、あさましく汚れた心になって行くのです。人から出るもので良いものは赤ちゃん以外にないのではないかと思います。糞便、汗、目糞、鼻糞、そして下品な言葉。私たちは自分の言葉で自分を汚してはなりません。出来るだけ愛と優しさと思いやりで平安な言葉を出しましょう。またもしそれが信仰に関することなら、一層、恵が約束されています。

わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。マタイ5:12〜11

人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。ルカ6:22
 主イエスと神様の為にののしられ迫害されるならそれは天国の階段です。私たちを失望落胆させるのは悪魔の手段なのです。しかし、イエス様は全く逆のことを命じておられます。「喜び踊りなさい」。悪魔と争うことは彼のわなにはまることになります。

御使のかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時、相手をののしりさばくことはあえてせず、ただ、「主がおまえを戒めて下さるように」と言っただけであった。ユダ1:9

 さすが天使長ミカエルです。悪魔のわなにはまりません。私たちが平安を失い、動揺しないために、ミカエルの態度に学ぶことにしましょう。
 以上は外部との争いですが、内部の争い、クリスチャン同士とか、夫婦間の争いはちょっと違います。この場合はいつか必ず天国で再会するという絶対条件があります。しかし、どうしても意見が合わないような最悪の場合、次の御言葉が参考になります。

まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」ヨハネ21:18〜22

 ペテロはイエス様から彼の行く末について語られました。その時、彼はそばにいたヨハネが気になりました。「主よ。この人はどうですか。」と彼は主に聞きました。その答えは、「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」でした。ヨハネにはヨハネの人生があり、主の御旨の御計画があります。それはペテロが知る必要は無いのです。「あなたはあなたの道を行けば良い」のです。クリスチャンはそれぞれの使命があります、他人の人生まで心配する必要は無いのです。(ただし、牧師や指導者が指導する場合は別です。)そういうと「そんな冷たい」と言われそうですが、別に私の意見ではなく主のお考えです。ですからペテロはこう言っているのです。

あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。Tペテロ4:15

あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。ローマ14:22

 自分の信仰を堅く保ちましょう。ただし、牧師や指導者の愛の導きには従うべきです。しかし、これは難しいですね。指導者にも行き過ぎや無知や偏見もあるのですから。いずれにしても、主を見つめてまっすぐに歩んでください。

わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。黙示録3:11

 さて、クリスチャンの夫婦の場合はどうでしょうか。ある世界的に有名な伝道者が、かつて、「天国を見たかったら私の家にいらっしゃい」と言ったそうです。しかし、この人はうそを言っています。私はその確証を握っていますが、発表はしません。
 クリスチャンの夫婦でも意見の食い違いというものは起こってきます。天国も地獄もあります。元々が全く別の人格同士が共に住むのですから、そんな理想的には行くはずがありません。(まれには有りますが)信仰によって夢のような家庭が築けるなら苦労はありません。救われた罪人が突然、完全無欠な人格者に変わるものでもありません。むしろ長い訓練の場として天国への階段を上ってゆく過程があるのです。

同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。Tペテロ3:7

 夫婦とは「いのちの恵みをともに受け継ぐ者」たちなのです。すばらしい言葉ですね。
ところで、ペテロはこの前に妻に対してもっと長い戒めを与えています。

同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行なえば、サラの子となるのです。Tペテロ3:1〜6

 パウロもペテロも含めて、聖書は女性に対してかなり厳しい意見を持っています。それは女性が「弱い器」だからですが、その弱いというのは肉体的なことだけではなく精神的なことも意味しています。ところが女性は人間を産み育てるという重大な仕事を持っています。だからこそ厳しい要求がなされるのでしょう。
 しかし、これらの弟子たちに比べて、主イエスは女性に対して、常に優しく、忍耐強く、思いやりに満ちていました。私たち男性は主の態度に学ぶべきなのでしょう。
 あなたに平安がありますように。