ホームページ・メッセージ080217 小 石 泉
Bible Land museum
バイブルランド博物館
創世記 エソウの子孫
36:1 これはエサウ、すなわちエドムの歴史である。 36:2 エサウはカナンの女の中から妻をめとった。すなわちヘテ人エロンの娘アダと、ヒビ人ツィブオンの子アナの娘オホリバマ。
36:3 それにイシュマエルの娘でネバヨテの妹バセマテである。 36:4 アダがエサウにエリファズを産み、バセマテはレウエルを産み、
36:5 オホリバマはエウシュ、ヤラム、コラを産んだ。これらはカナンの地で生まれたエサウの子である。
36:6 エサウは、その妻たち、息子、娘たち、その家のすべての者、その群れとすべての家畜、カナンの地で得た全財産を携え、弟ヤコブから離れてほかの地へ行った。
36:7 それは、ふたりが共に住むには彼らの持ち物が多すぎて、彼らが滞在していた地は、彼らの群れのために、彼らをささえることができなかったからである。
36:8 それでエサウはセイルの山地に住みついたのである。エサウとはすなわちエドムである。
36:9 これがセイルの山地にいたエドム人の先祖エサウの系図である。(中略)36:24
ツィブオンの子は次のとおり。アヤ、アナ。このアナは父ツィブオンのろばを飼っていたとき荒野で温泉を発見したアナである。(後略)
イラスト: 渡辺 百合
35章にはエソウの子孫が詳しく語られていますが、あまり意味がないと思われるので省略します。ただ最後にアナという人が温泉を見つけたというが面白いので残しました。何となく日本人なら喜びそうな話なので。
エソウの子孫エドム人(イドマヤ人)については、その後、何度か聖書に出てきますが、先祖のエソウと違ってイスラエルに対立する部族として現れます。エソウはさっぱりした男らしい人でしたが子孫はそんな先祖がヤコブに騙された話を伝承として語り伝え恨みに思っていたのではないかと思います。こういうことは良くあることです。ですからモーセがエジプトを出てカナンに入るときにエドム人の土地を通らせてくれと頼んだとき、彼らは断固として断りました。
20:14 さて、モーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを送った。「あなたの兄弟、イスラエルはこう申します。あなたは私たちに降りかかったすべての困難をご存じです。 20:15 私たちの先祖たちはエジプトに下り、私たちはエジプトに長年住んでいました。しかしエジプトは私たちや先祖たちを、虐待しました。 20:16 そこで、私たちが主に叫ぶと、主は私たちの声を聞いて、ひとりの御使いを遣わし、私たちをエジプトから連れ出されました。今、私たちはあなたの領土の境にある町、カデシュにおります。 20:17 どうか、あなたの国を通らせてください。私たちは、畑もぶどう畑も通りません。井戸の水も飲みません。私たちは王の道を行き、あなたの領土を通過するまでは右にも左にも曲がりません。」 20:18 しかし、エドムはモーセに言った。「私のところを通ってはならない。さもないと、私は剣をもっておまえを迎え撃とう。」 20:19 イスラエル人は彼に言った。「私たちは公道を上って行きます。私たちと私たちの家畜があなたの水を飲むことがあれば、その代価を払います。ただ、歩いて通り過ぎるだけです。」 20:20 しかし、エドムは、「通ってはならない。」と言って、強力な大軍勢を率いて彼らを迎え撃つために出て来た。 20:21 こうして、エドムはイスラエルにその領土を通らせようとしなかったので、イスラエルは彼の所から方向を変えて去った。
モーセとイスラエルは敵対する民族は撃破して来ましたがエドムに対しては戦いを避けました。モーセは「あなたの兄弟、イスラエルは」と呼びかけています。他の民族に対する態度とは非常に違います。それはやはりヤコブとエソウの関係を語り継いでよく知っていたからでしょう。しかし、彼らが通過を拒んだとき、直線距離なら最短の道を通らず、遠回りをして争いを避けました。モーセは、兄エソウにわびたヤコブの関係を覚えていてそうしたのでしょう。こんなところに時代を超えて、民族の感情というものは引き継がれていくものだとつくづく感じますね。それは今でも続いているのかもしれません。
聖書にもう一度エドム人が現れるのはイエス様の誕生のときです。
2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。 2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」 2:3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
このヘロデはエドム人でした。ヘロデは、一時ユダヤを再興したハスモン家を滅ぼしローマの力を借りて王位に着きました。ヘロデは有能な王でしたが、純粋なユダヤ人ではなかったのでいつもそのことにコンプレックスを持っていました。そしてついには周りの親族のほとんどと自分の妻も子も殺してしまいました。それで「ユダヤ人の王が生まれた」と聞いて驚き恐れたのです。
この後の物語はヨセフというスーパースターの話になりますので、今日はこの辺で。
ヘロデ大王出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「ヘロデのイェルサレム占領(The taking of Jerusalem by Herod the Great, 36 BC,)by Jean Fouquet, 15世紀後半古代ユダヤにおいて再び独立を獲得したハスモン朝の末期の王アレクサンドロス・ヤンナイオスの息子ヒルカノス2世の側近にイドマヤ(エドムのギリシャ語読み)出身のアンティパトロスという武将がいた(イドマヤはハスモン朝によってユダヤ教化させられた土地であり、ユダヤ人からは軽視されていた、と書かれている)。ヘロデはこのアンティパトロスの息子である。父アンティパトロスはローマ軍の軍事行動を積極的に援助することでユリウス・カエサルの信用を勝ち取ることに成功した。ヘロデはカエサル死後の混乱したローマの政治情勢を読みきって、ローマとの友好関係を維持することに成功。ガリラヤ地方の知事として統治した。父アンティパトロスがマリコスというユダヤ人に毒殺されると、即座に彼を捕らえて処刑しているが、ヘロデの専制的なやり方はユダヤ人最高法院の反感を招くものであった。
ヘロデのチャンスは人生最大の危機によって訪れた。政教一致政権であるハスモン朝において大祭司でもあったヒルカノスの甥アンティゴノスがパルティアの援助を受けて伯父に叛旗を翻したのである。エルサレムにいたヘロデの兄パサエロスも捕らえられて命を落とした。ヘロデはマリアンネ1世を妻としてハスモン朝との関係を作っていたが親ローマであったため身に危険がおよび、ガリラヤから当時クレオパトラのもとにいたマルクス・アントニウスの援助を求めてアレクサンドリアへ逃れ、そこからローマに渡った。
ヘロデはローマにおいて元老院にアピール、父の代から続くローマへの忠誠を評価されてローマの軍勢を貸与され、エルサレムへ向かった。エルサレムはローマ軍の精鋭の前にあえなく陥落。紀元前37年、ヘロデはついにローマ公認のユダヤ王となることができた。
アントニウスがオクタウィアヌスに敗北すると、ヘロデはすかさず勝利者へ乗り換えた。ヘロデはローマの指導層との友好関係こそが自らの政権の唯一の基盤であることを熟知していたのである。王位についたヘロデが徹底したことは前政権ハスモン朝の血をひくものをすべて抹殺することであった。アンティゴノスはローマ人によって処刑された。ヘロデは妻マリアンネとその間に生まれた自分の二人の息子すら手をかけ、マリアムネの弟アリストブロス、マリアムネの母アレクサンドラも殺害した。また自分に対して敵対的であったユダヤ教の指導層最高法院の指導的なメンバーたちを迷わず処刑している。これ以降最高法院の影響力は弱まり、宗教的な問題のみを裁くようになる。
ヘロデは建築が趣味であった。人工港湾都市カイサリア、歴史に名を残す大要塞マサダ、アウグストゥスの名前を冠した新都市セバステ(サマリア)、エルサレムのアントニア要塞、要塞都市ヘロディオン、マカイロスなどはすべてヘロデの時代につくられた。それだけでなくヘレニズム君主としてパレスティナや小アジアのユダヤ人が住む多くの都市に多くの公共施設を提供している。この行為はギリシャ系住民の間でヘロデの名声を高めたが、ユダヤ系住民にはかえって反感を買うことになった。
しかし、なんといってもヘロデの名を不朽のものとしたのはソロモン王を超える規模で行ったエルサレム神殿の大改築であった。神殿はローマ帝国を含む当時の世界でも評判となり、このヘロデの時代にディアスポラのユダヤ人や非ユダヤ教徒までが神殿に参拝しようとエルサレムをさかんに訪れるようになった。
ヘロデ大王の最晩年は後継者問題が彼の頭を悩ませた。また、エルサレム神殿に金の鷲をすえようとしたため、ユダヤ教指導層と対立することになった。紀元前4年、死去。
新約聖書のマタイによる福音書では新たな王(救世主)の誕生を恐れたヘロデ大王が二歳以下の幼児を虐殺(幼児虐殺)させたため、イエスと両親がエジプトに避難したという記事があるが、歴史的な裏づけはない。ただし、この描写が福音書記者の時代のヘロデに対する一般的な認識を反映している可能性はある。
ヘロデの死後、遺言に従って息子のアルケラオスとヘロデ・アンティパス、フィリポスと三人の兄弟たちが後を継いだ。ユダヤ人たちはローマに使者を派遣して、ヘロデ王家の支配を廃してくれるよう要請したが、聞き入れられなかった。しかし、アルケラオが王を名乗ることは許されなかった。後にアルケラオは失政を重ねたため、住民によってローマに訴えられ、解任されてガリアへ追放された。その後のユダヤはローマ帝国の直轄領となった。他の兄弟たちも父のように王を名乗ることはゆるされなかったが、分封領主としてユダヤの周辺地域をおさめることを認められた。

墓の所在
ヘロディウム(南西方向より)
ヘロデの墓については、エルサレム近郊のヘロディウムに人工的に作られた山に存在するとされてきたが、確証は得られていなかった。しかし、2007年5月7日に、ヘブライ大学の研究チームがヘロデの墓を発見したと報じられた。