ホームページ・メッセージ080113            小 石  泉

振り向いてみない異邦人


 かなり前になりますが「異邦人」と言う歌が大流行しました。“ちょっと振り向いてみただけの異邦人”という小粋な歌詞に心引かれた人々が多かったのでしょう。この歌を歌った久保田早紀という人は、その時はクリスチャンではなかったらしいのですが、その後、クリスチャンになりました。今は久米小百合と言う名前で、教会関係で賛美歌を歌っています。本当に振り向いたのでしょう。
 先日、グアムに行ったとき、あらかじめ日本人教会を探して電話番号を控えて行ったのですが、現地に行って掛けてみると、別の教会になっていました。急いでショッピングセンターの電話番号簿で探しても見つからず、お店の人も知らないと言っていました。無理も無いと思いました。日本本土でもクリスチャンは人口の0.7%です。グアムに何人日本人がいるか知りませんが1000人いても7人しかいないわけです。立ち行けません。
 海外に行って驚くのは実に日本人の観光客が多いことです。また、日本の工業製品は優秀で世界にあふれています。そして日本人は宗教に対しても信仰的で多くの宗教を尊んでいます。しかし、キリスト教だけは別です。世界の先進国でキリスト教が10%未満と言うのはイスラム圏以外では日本とイスラエルだけです。そしてご承知の通りイスラエルはユダヤ教です。
 キリスト教と言うのは、ユダヤ教なのです。ユダヤ教は旧約聖書の約束のメシヤ(ヘ)=キリスト(ギ)が来ることを期待して待っているのに対して、キリスト教はもう来たと信じているのです。ですからユダヤ教は未完のユダヤ教であり、キリスト教は完成したユダヤ教です。ただ、キリスト教がイエス(ギ)=ヨシュア(ヘ)がメシアだったと言うのをユダヤ教は認めないのです。〔(ヘ)ヘブル語、(ギ)ギリシャ語〕ところが最近ユダヤ人の中でも次第にイエスがあの約束のメシアだったと信じる人々が増えてきました。
 お隣の韓国では30%が、共産主義の中国でも10%がクリスチャンだと言うのに、ひとり日本だけは頑として受け入れません。(0.7%なんて数に入りません)
  日本は物質的には世界でも有数の豊かな国になりました。しかし今更言うまでもでもないことですが、精神的には最貧国といって良いでしょう。毎日々々起こる殺人事件、自殺。会社や学校では社員や教員のうつ病の対策に負われています。どうして振り向いてみないのでしょうか。ここに解決があるのに。キリスト教と言うだけで、まるで幽霊にでも会ったように、あわてて避けるのをみていると不思議でなりません。
 日本に神社、仏閣、新興宗教がどれほどあるか知りませんが、そのどれに行っても救いはありません。聖書は明確にそう告げています。

この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。使徒4:12

お百度参りしようと、千日回行しようと神に至る道は一つだけです。そういうと、だから一神教はいやだ、不寛容で戦闘的だと言います。いいですか、もし人が作り出す宗教、神への道を全て認めていたら、神への道は無数に出来て、それは真理を覆い隠してしまうでしょう。さらに人が作り出す宗教や清めの道は、絶対にその人間の品性の邪悪さや自己中心、自己陶酔と無関係ではないはずです。人間が本質的に清らかで、無垢のものなら確かに救いはあるかもしれません。しかし、残念ながら人間は本質的に穢れ、自己本位で、高慢と言う性質から無関係ではありません。ほとんどの日本の宗教は自己陶酔であり自己賛美だと私は思います。客観的な理性による自己分析がありません。
 人間の邪悪さについてですが、私は色々な詐欺の話を聞くとき、とりわけこのことを確信します。人を殺すのは衝動的なことがありますが、詐欺は念入りに計画を練って人を謀るのです。それによってどれほど多くの人々が、全財産を失ったり、破滅に至ったかを考えてみてください。これが人間の本質の中にあるのです。これは弱さゆえの罪ではありません。(罪には人間が悪いと知りながら自分の弱さに負けて犯してしまう罪と、悪いと知りながらあえて行う罪とがあります。神様はこの二つを明確に分けています。例えば殺人でも“誤って”殺した場合には、「逃れの町」という制度がありました。)
 毎日々々これほど悲惨でむごたらしいことが頻発しているのに、それでも人間を信じますか? 人間の作った宗教を信じますか? どうして、ここに真理があり、人間の求めている解答、歩むべき道があると言うことを、少しでも信じてみようと思わないのでしょうか? 私は不思議でなりません。なぜ振り向いて見もしないで避けてしまうのですか?
 
 人間って何ですか? 私はなぜ生まれてきたのですか? という疑問があるでしょう。

知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。詩篇100:3

 これが人間の創られた理由です。人間を羊に例えるなんて不愉快だと言う人もいますがイエス様はこう言っておられます。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。ヨハネ10:11

人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。ヨハネ15:13

 私たちは神の愛を受け取るべきものとして創られました。あなたは愛されるために生まれたのです。神は愛であり、愛は対象を激しく求めます。神はあなたを激しく求めているのです。旧約聖書全編に、神のうめきが書かれています。それは特別に愛すべき対象として、人類の代表として創造したイスラエル民族が、神を裏切り、偶像信仰に走り、神をないがしろにし続けたからです。そしてそれは人類全体のことでもあります。

5:1 わたしはわが愛する者のために、そのぶどう畑についてのわが愛の歌をうたおう。わが愛する者は土肥えた小山の上に、一つのぶどう畑をもっていた。 5:2 彼はそれを掘りおこし、石を除き、それに良いぶどうを植え、その中に物見やぐらを建て、またその中に酒ぶねを掘り、良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。ところが結んだものは野ぶどうであった。 5:3 それで、エルサレムに住む者とユダの人々よ、どうか、わたしとぶどう畑との間をさばけ。 5:4 わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、何かなすべきことがあるか。わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、どうして野ぶどうを結んだのか。 5:5 それで、わたしが、ぶどう畑になそうとすることを、あなたがたに告げる。わたしはそのまがきを取り去って、食い荒されるにまかせ、そのかきをとりこわして、踏み荒されるにまかせる。 5:6 わたしはこれを荒して、刈り込むことも、耕すこともせず、おどろと、いばらとを生えさせ、また雲に命じて、その上に雨を降らさない。 5:7 万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である。主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。 5:8 わざわいなるかな、彼らは家に家を建て連ね、田畑に田畑をまし加えて、余地をあまさず、自分ひとり、国のうちに住まおうとする。 5:9 万軍の主はわたしの耳に誓って言われた、「必ずや多くの家は荒れすたれ、大きな麗しい家も住む者がないようになる。 5:10 十反のぶどう畑もわずかに一バテの実を結び、一ホメルの種もわずかに一エパの実を結ぶ」。イザヤ書5:1〜10(口語訳)

 ぶどう園の主人は土地を耕し、良いぶどうの苗を植えてよいぶどうのなるのを楽しみに待っていました。しかし、出来たのはすっぱくて食用にならないものでした。ぶどう園の主人は聞いています。「わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、何かなすべきことがあるか。わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、どうして野ぶどうを結んだのか。」私にすべきことが他にあったのか? 私は全てを完全に準備したのではなかったか? 
これが神の叫びです。

「主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。」

これが今日の社会です。さあ、全ての先入観と虚栄と自己満足を捨てて、虚心に真実に向かってください。神様はあなたを待っています。

わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。
イザヤ65:1