ホームページ・メッセージ071230            小 石  泉

善悪を知る木はどこに行ったのか

神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」創世記2:16〜17

さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。3:1〜6

 これは、あまりにも有名な禁断の木の実の物語です。ここから人間の罪が始まり、神との断絶が起こったのです。しかし、その「善悪の知識の木」はその後どこへ行ってしまったのでしょうか。「いや、これは単なる比喩だからそんな木はなかったのさ」と言われるかもしれません。ところがエデンそのものは実際に地球上にあったというのが多くの聖書学者の意見です。ユーフラテス川の近くにあるエリドウという村には、かつてここにエデンの園があったと言う伝説も残っています。そればかりか、一方の「いのちの木」はその後も聖書の中に出て来ます。

神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。3:22〜24

 「いのちの木」はエデンの園にあって、その実を食べないように番人まで置かれています。また、箴言に4ヶ所、黙示録にも4ヶ所出てきます。

知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は幸いである。箴言3:18

都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。黙示録22:2

自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。22:14

また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。22:19

 都と言うのは未来に現れるキリストの花嫁なる教会、天のエルサレムのことで、ここには一本どころか沢山の「いのちの木」があります。
 ところが「善悪の知識の木」は忽然と姿を消してしまうのです。あの木はどこに行ったのでしょう? それは人間の歴史の中に隠れています。
 人間の歴史には悪ばかりがあるわけではありません。確かに、ノアの時代には、

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。創世記6:5

とあって、悪のほうが善よりは圧倒的に多かったことは確かですが、全く無かったわけではありません。「悪が増大した」と言うことは善が有ったこともあったのです。
 人間の歴史には善なる動機や、行為があったことは事実です。今も、あのノアのときのように悪が満ちている時代ですが、世界の至るところで善良なこと、愛すべきこともあるではありませんか。人間はアダム以来、あの善悪の知識の木の実を食べ続けているのです。
 しかし、その木の実もそろそろ終わりに近づいています。この木の実を人間が食べ尽くしたときに、神様は行動を起こされます。
 私たちが「神様、もう、十分です。私たちは納得しました。私たちには自分たちであなたにふさわしい清さも、正しさも、完全な善も、産み出すことは出来ませんでした。あなたに主権をお返しします。」と言う時が来たら、神様は天の門を出て人間の世界に再び来られるのです。
 それはまた、神の国を慕い求めて、懸命に生きた人々が栄光の姿に変えられる時です。この人々は善の実だけを食べることを心がけていたのです。もちろん完全に出来たとは言えませんが、いのちの木の持ち主である方がその実を与えてくださるでしょう。
自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。