ホームページ・メッセージ071216            小 石  泉

犠牲のために生まれた方


主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。創世記3:21

 アダムとエバが神様の戒めを破って罪を犯したとき、彼らは自分たちが裸であることに気がついてイチジクの葉をつづって腰に巻きました。けれども神様はその代わりに皮の着物を作って着せられました。罪人となった人間を覆うために、2頭の羊(恐らく)が殺されたのです。それ以来羊は人類の衣類となりましたが、罪を覆うには犠牲が必要となったのです。どんなに子供を愛していても泥まみれになって帰ってきた子をそのまま抱きしめる母親はいません。まず、洗います。罪を持つものとなった人間が神様に近づくには、まず洗浄が必要です。それは犠牲の血が流されなければならないのです。罪を持つ人は犠牲の血無しでは神に近づくことは許されません。これは聖書全巻を通しての大原則です。
 このことをアダムとエバは当然その子供たちに教えていたはずです。なぜならこれはどんなことよりも大切な絶対条件なのです。これが日本人には判らない点です。日本人は神に近づくのに犠牲の血が必要だとは教えられえていません。神社に行くにも、せいぜい、手を水で洗うだけです。

日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。4:3〜7

 このカインとアベルの物語は、「犠牲の血がなければ神に近づくことは出来ない」という原則が判ると、すぐにわかる物語なのですが、何とキリスト教の“偉大な”学者や指導者さえその事がわからないためにとんちんかんな解説をしていることがしばしばです。
 あるクリスチャンではない賢い女性の書いた本「バベルの謎」に「カインは正しい捧げものをした」と書かれていましたが、これは全く正反対です。カインは「間違った方法で」神に近づいたのです。カインはまず犠牲の血を携えて近づかなければならなかったのです。カインはそれを知っていながら、あえて無視したのです。

主はエジプトの国で、モーセとアロンに告げて言われた、「この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。もし家族が少なくて一頭の小羊を食べきれないときは、家のすぐ隣の人と共に、人数に従って一頭を取り、おのおの食べるところに応じて、小羊を見計らわなければならない。 小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。 そしてこの月の十四日まで、これを守って置き、イスラエルの会衆はみな、夕暮にこれをほふり、その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。生でも、水で煮ても、食べてはならない。火に焼いて、その頭を足と内臓と共に食べなければならない。朝までそれを残しておいてはならない。朝まで残るものは火で焼きつくさなければならない。あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。 その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。出エジプト12:1〜13

 これはモーセがイスラエル民族をエジプトから脱出させる前夜のことです。イスラエル人は羊を殺し、その血を門の柱とかもいに塗るように命じられました。そしてそれを塗った家だけは、すなわちイスラエルの家だけは長男が死なないで、塗らなかったエジプト人の家はことごとく長男が死にました。こうして神の審判が“過ぎ越した”ところから、「過ぎ越しの祭り」(ぺサハ)という祭りがイスラエルの重要な祭りとなりました。ここでも罪のための犠牲の羊が殺されます。
 そして、イエス様が十字架にお架かりになったのは、正に「過ぎ越しの祭り」のために各家々で羊が殺されていた時間です。何と驚くべき神様のスケジュールでしょうか。

また民のための罪祭のやぎをほふり、その血を垂幕の内に携え入り、その血をかの雄牛の血のように、贖罪所の上と、贖罪所の前に注ぎ、レビ16:15

 モーセがイスラエルに与えた十戒に付属している律法に、イスラエルの民の罪の許しのために、年に一度、大祭司はモーセの幕屋の一番奥にある至聖所に置かれた契約の箱の黄金のふた(贖罪所)の上に犠牲の血を注ぐという儀式がありました。これはその後イスラエルが続く限り守られました。毎年、大祭司は羊を殺して捧げたのです。

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」ルカによる福音書2:25〜35

  契約の箱の模型(想像したもの)?

 イエス様が生まれて最初の宮参りのときに、神に全てを捧げていたシメオンと言う老人がイエス様を見ていった言葉です。ここには漠然としてですが、イエス様の受難が予言されています。

その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。ヨハネ1:29

 30歳でキリストとしての活動を始めたイエス様を、預言者として尊敬されていたバプテスマのヨハネがこのように言いました。これほどはっきりと、キリストの犠牲を表した予言もありません。まさにイエス・キリストは「世の罪を取り除く神の小羊」なのです。

イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。ヨハネ19:30

 完了した。何が? 人類の罪の許しが、です。長年、動物の血によって捧げられてきた犠牲の供え物が、今、神の子によって捧げられました。もう動物の血は必要ありません。罪の無い神の御子の血が捧げられたのです。あなたも罪の体をキリストの血に覆われて神の前に行くことが出来ます。

また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。ヘブル人への手紙7:26〜27

 何と長い、壮大な物語でしょうか。こうして人間の完全な救いは完成したのです。もう自分で何かをする必要はありません。ただ、キリストのなさった御業を感謝して受け取るだけです。
 イスラエルの人々は毎年、羊を捧げて「我が罪」が許され神の前に義とされるように祈りました。だから羊の下に我と書いた漢字が義なのです。そしてクリスチャンの羊は神の御子イエス様です。私たちは神の小羊によって義とされたのです。クリスマスとはその方がお生まれになった日なのです。