ホームページ・メッセージ071118            小 石  泉

神のかたちに似せて


 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。創世記1:26〜:27

また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。 私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口はししの口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、 そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう。」と言った。この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。耳のある者は聞きなさい。 黙示録13:1〜9

 今、日本ではキリスト教式結婚式が盛んです。ほとんど70〜80%はそうなっているそうです。私は、これは日本でキリスト教というものを“見せる”良い機会だと思います。それだけに司式をする牧師は緊張します。何しろ出席者のほとんどはクリスチャンではなく、時にはキリスト教の賛美歌や祈りや牧師に出会うのも、最初で最後と言う方もおられるのです。これは日本では唯一“向こうから求めてくる伝道会”にさえ思えます。
 では、なぜ、キリスト教式結婚式はこんなに求められるのでしょうか。やはり最大の要因は美しさだと思います。神道の結婚式に比べても格段に美しいです。
 黙示録によれば、間もなくサタンが世界を支配します。それは3年半という短期間です。私はその時、キリスト教式結婚式は無くなるのだろうかと考えます。
 実は世界はそういう体験をしています。共産主義がロシアを覆っていたとき、キリスト教式結婚式は許されませんでした。新郎新婦は市長の前で祝福を受けました。それは70年ぐらいでなくなりましたが、今でも同じ形式で式をしているところがあります。ディズニーランドです。ディズニーランドではチャペルもどきの式場に申し訳程度に小さな“十字架のようなもの”が片隅あり、司式者は牧師ではなく市長と呼ばれます。ディズニーは無神論者でしたから、キリスト教には反対だったのです。
 先日、珍しく映画を見ました。「ミス・ポター」と言う美しい映画でした。何だか昔、少年時代に見た映画のようでした。見終わって心がほんのりと温かくなりました。最近のハリウッド映画は暴力と悪霊的なものばかりになっています。私はこのままこのような愚劣な映画ばかりになるのだろうかと思っていましたが、このような映画も作られることがあるのだと感慨ひとしおでした。ミス・ポターは「ピーターラビット」の作者です。
 ピカソの絵を見て美しいと感じるでしょうか。あれはすばらしい絵なんだということを押し付けられていなければ、醜い落書きと言えます。実はピカソはサタン礼拝者でした。彼の絵にはサタン礼拝のシンボルがいくつか隠されているのです。
 人間は「神のかたち」に創造されました。だからどんなに悪魔が人を、穢れたものや恐ろしいものに誘っても、心のどこかでは、美しいもの、清らかなもの、正しいものを求めているのです。バイオレンスもセックスもカーチェイスも、繰り返し続けば飽きてしまいます。男のようなたくましい女性が暴れ回ってもだんだんうんざりしてしまうでしょう。
 私にはシスコ・ホイーラーと言う女性の友人が居ます。彼女は幼い時からサタンに仕える巫女として育てられました。ナチスドイツの精神医学で人間をマインドコントロールする方法を研究する第一人者でメンゲレという人が居ました。このメンゲレ博士がシスコさんのマインドコントロールの責任者でした。彼女はあらゆる方法で教育され多重人格者として育てられました。やがて彼女はサタン礼拝の巫女として絶大な権力と富を持つようになりました。彼女のスイスの銀行には10億円の貯金がありました。
 しかし、力と富と華やかな名声(彼女はマリリンモンローの二代目として育てられたのです)にもかかわらず、彼女の心は悲惨でした。喜びがなく平安はありませんでした。やがて、フリッツ・スプリングマイヤー(奇妙なことに彼はこのときはクリスチャンではなかったのです)と言う人によって導かれ、彼女はキリストに出会ったのです。彼女は光と平安を発見し洗礼を受けました。同時に、彼女のスイスの口座から10億円の残高は消えていました。そして脅迫と攻撃が始まりました。彼女の家の正面の大きなガラス窓には2センチメートルもある分厚いガラスが入っていましたが、そこにライフル銃の弾丸の跡がいくつもあるのを私は見ました。彼女の娘さんは車を運転していたとき、他の車に撥ね飛ばされ瀕死の重症を負いました。お孫さんは殺すと脅迫されています。彼女はいつも住所を移動しています。しかし、どんな攻撃にもかかわらず、彼女はキリストにある平安と喜びを失うことはありません。最近、彼女は次のようなメールを私に送ってきました。

 「今日、私が祈っていたとき、聖霊は神の善について教えてくださいました。
『神の恵みは、失われることは無い。』詩篇52:1(私訳) 
 神の善は神の御性質の完全さに由来します。
『神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。』Tヨハネ1:5 

 神の御性質の全き完全さは何かを待ち求めなければならないとか、欠陥があるとかいう事は無いし、もっと良いものになるために何かを付け加えなければならないなどというものはありません。神の中には無限の海のような善の集積があります。神は永遠で不変の善です。神は善であられないことは出来ないのです。神に付け加えることも、引くことも出来ません。
 ああ、何と言う救い主に私たちは仕えていることでしょう。神の善は神の永遠の性質の本質で、どこかに起源を持ったものではありません。神の力は永遠の昔から無限でしたから、何か表現されるものがある前から、あるいは全能の力の行為が行われる前から、どんな被造物に表される前からも、永遠に善であられたのです。
 もし、人が神の善に対して罪を犯し、『神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじて』いて、その『かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げている』(ローマ2:4〜5)のなら自分以外に誰がその責めを負うでしょうか。
 もし神が、ご自身の祝福を悪意に用いたり、慈愛を裏切ったり、哀れみを踏みにじったりする者を懲らしめないなら、神は“善”であると言えるでしょうか。神が、その戒めを破り、その権威を侮り、天からの使者をあざ笑い、神の御子をさげすみ、迫害するような世界を取り除く時は、神の善の“反映”ではなく、最も輝かしい“範例”となるでしょう。」
 これがかつてはサタン礼拝の最高権威であるMother of Darkness(暗黒の母)という地位にあり、富と悪の力に満ちていた人の言葉でしょうか。彼女には数名の侍女さえいたのです。しかし、そのような地位も富も権力も彼女を満足させなかったのです。ついに彼女はキリストに出会い、神の光に導かれ、平安と喜びを見出しました。(キャサリン・クールマンは同じ地位にありましたが悔い改めることなく、悲痛な後悔と悲しみのうちに癌で死にました。)
 今、彼女は貧困と圧迫の中にいます。しかし、もう向こうに帰ることはありません。

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。ヘブル11:13〜16

 神のかたちに創造された人間は、サタンの惑わしに会っても、魂の奥底には善なるもの聖なるもの、清らかで、永遠のものを求め続けているのです。サタンはそれを何とかして奪い取ろうとしますが、何という徒労でしょうか。
 もちろん、サタンの誘惑に乗って、暗闇の道を歩み続けて、滅びに至る人も多くいるでしょう。しかし、どんな時にも、神は全ての人に、善であり真実な道を備えておられます。