ホームページ・メッセージ071028            小 石  泉

時がある


天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。
泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。
抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。
捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。
黙っているのに時があり、話をするのに時がある。
愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。
働く者は労苦して何の益を得よう。私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
伝道の書3:1〜11

 秋になると色々な果物が出来ます。柿、りんご、梨、ぶどう、イチジク。果物はみんな、熟さないとおいしくありません。果物には時があります。本当に「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」ものですねえ。全てのものに時があります。
 日本で伝道していると、本当に時を得ると言うことが大切だと思います。
御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。Uテモテ4:2(口語訳)と言う言葉もありますが、少し意味が違うと思います。
 ある人をこの道に導こうとする場合、この“時”が非常に大切です。時には“熟し柿が落ちるように待つ”必要があります。そのためには何もしない方が良い時と、何かをしなければならない時があります。「黙っているのに時があり、話をするのに時がある」のです。
 私は今月から日本橋で新しい教会を始めました。実はそんなつもりはなかったのです。日曜日のスケジュールを見ているうちに、午後がほとんど空いていることに気が付きました。そして私は日曜日に都心に居ることが多かったのです。これは何とか出来ないかと思って、ちょっとある方に会場の情報を聞いたところ、あれよ、あれよと言う間に、決まってしまいました。そして私の出来ない準備も、見事にやってくれるスタッフも来てくれました。今までの開拓伝道とはなんと言う違いだろうかと驚いています。協力牧師まで与えられたのです!「建てるのに時がある」のですね。
 ところで、私たちの人生は完全に神様のスケジュールどおりになっているのです!

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。エペソ1:4〜5

 これはどんなに理解しようと思っても、到底、理解不能の御言葉ですね。あなたは天地の創造される前から選ばれていたなんて信じられますか? 私は、これは何かの間違いなのではないかとさえ思います。しかし、聖書は神の霊感によって書かれ、誤りのない書物です。ここはいわゆる予定説といわれている代表的な箇所です。あなたはあなたの意思でクリスチャンになったのではなく、世界が始まる前からそう予定されていたのです。これはある人々にはつまづきとなる教えです。
 中野重治と言う人はクリスチャンでしたが、ここにつまづき共産主義者となり一生を終えました。馬鹿馬鹿しくてやってられないと思ったのでしょう。このように人間の理性を超えた神の言葉に対してはパスカルの「瞑想録」(パンセ)の言葉が適当でしょう。
「敬虔な人は、神が全てを表していないゆえに、神を畏れ、不敬虔な人は神が隠しておられるゆえに神を軽蔑する。」(ちょっと意訳しています)
 また、この選民思想はユダヤ人の選民思想を超える時間と規模の思想です。ユダヤ人の選びはアブラハムに始まります。しかし、クリスチャンの選びは天地創造の前と言うのです。恐るべきことですね。
 言い換えれば、イエス様の犠牲による贖いは「世界の基の置かれる前」から決められていたのです。人類がサタンに誘惑され罪を犯し、世界をめちゃめちゃにすることを神様は知っておられました。そしてすでにその時、イエス様が人となってこの世界に来られ、人類の身代わりとして、犠牲の子羊になることが決められていたのです。
 あなたがそれを信じて、「信じます」と言う扉を開けて入って、振り返ると、その扉の内側に「選ばれていた」と書かれていたのです。信仰と選びは表裏一体なのです。

それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。エペソ1:6〜12

「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。」時が満ちて。旧約聖書では人間の罪が余すところなく書かれています。旧約聖書は診断書なのです。人間の病巣、罪の姿、暗闇の傷がこれでもかこれでもかと書かれています。
 そして、その時が来て、イエス・キリストが来られて、十字架にお掛かりになり、私たちの罪を贖われました。「それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであっ」たのです。ですから新約聖書は処方箋です。どうすれば救われるか、についての的確な指示が書かれています。
 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」のです。あなたの周りのまだ救われていない人々のために祈っておられますか? ある人は長く、ある人はほんの少しで祈りが聞かれるかもしれません。しかし、時があります。神様が定められた適切なときに、人は救われるのです。ときにはじっと待ちましょう。その時まで。