メッセージ071007                   小 石  泉

何をしているのか分からないのです

「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。ルカ23:33〜34

 十字架にお掛かりになったイエス様の下で、兵士たちがその着物をくじ引きで分けていました。その着物は下着で縫い目のない一枚の布だったので、彼らは裂いて分けることをしないでくじ引きにしたのです。

さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。ヨハネ19:23〜:24

 イエス様はそれを見ながら、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と言われました。このお言葉は、ただ単にくじ引きをしている兵士たちだけに語った言葉ではないと思います。自分を十字架にかけた人々、さらに全人類に対して言われただろうというのは多くの聖書学者の言うところです。
 実際、神様の目で見れば、人類は自分が何をしているのか分からないのです。行き先不明、それがほとんどの人の実感でしょう。まるで盲目の人のように、人々は暗闇の中を目隠しで歩いているかのようです。
 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」という言葉の前には許されない罪があるだろうかと私は思います。このような哀れみの前に私たちは頭をたれてひざまずくべきです。あなたが過去にどんな罪を犯していても、神の目には涙があります。神の心はあわれみで熱くなっています。

エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。ホセア11:8

 最後の言葉をあなたのものにしてください。聖書の約束は自分で獲得するなら、自分のものになります。あなたを思う時、神の愛は「わたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」のです。
 私はこのごろ、最後の審判について考え方が変わりました。昔から、それは恐ろしく、厳しい、神の裁きと言う風に語られて来ました。特に中世の教会は、最後の審判を利用して、民衆を恐怖に陥れて暴利をむさぼるようなことさえあったようです。そして宗教改革があり、共産主義が教会を迫害しました。それは神の清めの鞭のようでした。
 しかし、最後の審判は人々が神の愛と哀れみの大きさに圧倒される時となるでしょう。もちろん、悪は悪として裁かれるでしょう。しかし、善も善として評価されるのです。私は、だから、どうでも良いと言っているのではありません。ただ、思うのです、人間には自分を清めることの限界があります。清いと自認する人ほど、怖い人も居ないではありませんか。私たちを清めて神の国にふさわしい者にするのは、ただ神の哀れみだけです。罪は人間の本能です。それは黒人の皮膚を白くするように難しいことです。

「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。イザヤ1:18

 緋色というのは最も漂白が難しい色でした。しかし、それを雪のように白くしてあげようとおっしゃるのです。イエス様の血だけがそれを成し遂げることが出来ます。
 しかし、私たちの信仰は、不確かで、弱々しいのに、そんなことを期待していいのでしょうか。こんな弱い信仰でも大丈夫なのでしょうか。

見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。 彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。イザヤ42:1〜4

 人間の罪は生まれつき持っているものですが、生まれた後の環境による人格形成も大きな問題です。皮膚の色は同じでも中身は全く違うということがあります。私は多くの心の病を持った人々に出会いました。私自身も人格的な欠陥を持っています。人格的に完全な人など見たことがありません。
 こんな私たちが持つことが出来る信仰は、「いたんだ葦、くすぶる燈心」のように弱々しいものです。
 日本でやくざと呼ばれる人々が救われることがあります。それは劇的なので大いにもてはやされます。「刺青クリスチャン」「親分はイエス様」と華々しい言葉が踊ります。
しかし、私はこういう人々が間もなく、問題を起こしたり、また戻ってしまったケースをいくつも知っています。もちろんそのまま信仰を全うされる方も多くおられるのですが、そうでない場合も多いのです。しかし、そういう方でも、信仰がなくなったわけではありません。それは「傷んだ葦、くすぶる燈心」のように、かすかに彼らの中にあるのです。
 こういう人々に、すぐに教会になじめと言ってもそれは無理です。織田信長は黒人を見たときこれは汚れているのだろうと思い、家来にごしごし洗わせたそうです。黒人は白くなりませんが、やくざの人々は長い信仰生活を通して白くなることが出来ます。しかし、それは容易なことではありません。神様の側では救いは一回きりですが、人間の側では何度も何度も救われる必要があるのです。
 特に刺青を人々に見せることは良いことではありません。かつて「新生運動」という団体の責任者だったアンドース宣教師は、やくざから救われてこの団体の印刷工場で働いていた青年に、寮の風呂には誰も居ないときに入りなさいと教えていました。それは刺青を見せてはならないからでした。刺青は竜などの悪の象徴が描かれる場合が多いのです。そのような悪のスピリットはいつかまた命を吹き返すからという考えからでした。このアンドース先生には何度もお会いしましたが、柔和なすばらしいクリスチャンでした。その後、ノルウエーに帰られて、国全体の教会の指導者になられたと聞いています。
 またある年配のクリスチャンは、私に、「私はいくらやくざが救われたからといってすぐに牧師になることなど、絶対に認めない、彼らによってどれほどの人々が苦しみ、一生を台無しにされたり、一家離散したり、自殺に追い込まれたことか。」と言っていました。殺人、レイプ、恐喝、脅し、人身売買などを生業としてきた人々は、生まれつきの罪のほかに、環境によるマイナスの遺伝子を持っています。こういう人々が普通の人々と同じに信仰の歩みをすることは容易ではありません。
 しかし、救われたなら「神の家族」「兄弟姉妹」でしょう、教会は彼らを温かく迎えるべきですというでしょう。では、なぜアメリカには黒人の教会があるのですか? ヒスパニックの教会、中国人の教会、韓国人の教会、日本人の教会があるのですか? 神の家族、兄弟姉妹なら同じ教会に座ることが出来るのではないですか。
 日本にも韓国人の教会があります。日本人の教会に来れば良いのに・・・。逆にそういう韓国人の教会に行った日本人クリスチャンが結局なじめないで出てくるのを何度も見ました。環境によって作られた遺伝子はそう簡単には直らないのです。
 しかし、神様はどんな環境に生まれ育った人でも「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく」忍耐強く、優しく、そっと育てられるのです。一方、私たちは我慢が出来ず、あせって強く息を吹きかけたり、無理やりまっすぐに立てようとして、くすぶる灯心を消してしまったり、傷んだ葦を折ってしまったりします。
 “ただ、見守っているだけ”というときも必要なのです。そばに居てあげるだけしか出来ない場合もあるのです。彼らが“神様から来る矯正”を受けるのを信じてじっと待ち望むことも必要です。赤ちゃんでもはいはいを十分させないで、無理やり立たせるのは良くないことです。
 私たちはみんな、“何をしているかわからないものであり、傷める葦、くすぶる燈心”のようなものです。しかし、愛の神は見捨てず、あきらめず、正しい道に導かれるのです。

主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる。イザヤ40:11

その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。イザヤ9:11