ホームページ・メッセージ070902 小 石 泉
Bible Land museum
バイブルランド博物館
創世記 アブラハム]T
イラスト 渡辺百合
22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。
22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。
22:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
ここはあまりにも有名な箇所で、改めて説明を要しないのですが、もちろん非常に重要な箇所なので学んでいきましょう。神様は私たちの思いを越えて事をなさる方です。100歳まで待ってやっと与えられたたった一人の子イサクを、いけにえとして捧げなさいという、思いも及ばない命令でした。人類は自分の子を神々、特にサタンにいけにえとして捧げ続けてきました。当時もアブラハムの周りではそのような習慣があったのです。モレクと言う偶像の祭りでは鉄製の牛を焼いて真っ赤になった胴体の空洞の部分に生きたまま赤ちゃんを投げ入れて、その断末魔の叫び声を喜びました。
アブラハムにとっては、真の神もそのような犠牲を求められるのだろうか? 私の子孫は空の星のようになると言われた約束は反古になったのだろうか? と言うような疑問が沸いてきたことでしょう。しかし、アブラハムは神の声に忠実に従いました。
実は、近年、中国でキリスト教が盛んに信じられています。人口の10%とも言われます。しかし、聖書も十分でなく、教育も十分でないために、色々な過ちが起こりました。その一つに、このアブラハムの物語から、自分の子供を捧げることが信仰なのだという、恐ろしい誤解が生まれ、多くの子供たちが犠牲になったといいます。
ここで考えなければならないのは、「神の声」を人はどれだけ識別できるのかということです。なぜ、アブラハムはそれが「神の声」だと判ったのか、です。私たちは、時々「これは御心だ」と簡単に言いますが、本当にそうですか? あなたはどうしてそれが判ったのですか? 聖書の有名な人物は必ず神の声を聞いています。しかし、どうしてそれが神の声だと判るのでしょう? 自分の思い、人からの誘導、の可能性は無いのでしょうか。私はこれは大切なことだと思います。しばしば、自分も含めてですが、神の声とは断定できないものを神の声だということがあるからです。
アブラハムにとっては「神の声」は、非常に明確だったようです。羊が羊飼いの声を聞き取り、別の羊飼いにはついていかないように、アブラハムには主のみ声は間違いなく聞き取ることが出来たのでしょう。
アブラハムはたとえイサクを殺しても、神様はよみがえらせてくださると信じました。しかし、実際にはその命令に従うのは辛く苦しいことだったのでしょう。「翌朝早く、」という言葉に、一晩まんじりともせずにいたアブラハムの姿があります。モリヤの地というのは、今のイスラム教の黄金のモスクのある場所と言われています。モリヤとは「ヤハウェが備える地」という意味です。この時、イサクがいくつだったかは判りません。一般にいけにえは幼子のことが多いので、まだあどけない幼児だったようにも思います。しかし、人一人を燃やし尽くす量の薪を背負ったというのですから、ある人は15〜6歳になっていたといいます。
22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」 22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。 22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。 22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。 22:11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」 22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」 22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
振り上げた刀の先には、愛するひとり子イサクが横たわっています。イサクもイサクで黙って父に縛られ、薪の上に寝かせられているのです。刀を振り下ろそうとしたその時、主の使いがそれを止めました。危機一髪でイサクは死なずにすみました。しかし、このモリヤの山から、数キロ先にあるゴルゴタの丘で神のひとり子は実際に十字架におかかりになり、死にました。私たち全ての者の罪を負って。
信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。ヘブル11:17 〜19
イサクは死にませんでしたが、イエス様は死にました。そしてよみがえられました。イサクの代わりに雄羊が全焼のいけにえとなりました。イエス様は信じるもの全ての代わりに子羊として犠牲を払われました。感謝です。
22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。 22:15 それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、 22:16 仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、 22:17 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。 22:18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」 22:19 こうして、アブラハムは、若者たちのところに戻った。彼らは立って、いっしょにベエル・シェバに行った。アブラハムはベエル・シェバに住みついた。
アドナイとは「主」という名詞です。新改訳聖書で「主」と濃い文字になっている場合は、アドナイではなくヤハウェという神のお名前です。
神様は再びアブラハムの信仰を確認されました。どこまでも、どこまでも忠実な信仰。だからこそ神の友と呼ばれたのです。今、アブラハムは神の国で尊い地位にいることでしょう。イエスさまは不思議なことを言われました。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。
神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」マタイ22:32
生きている者の神? もちろん私たちクリスチャンは死んでも生きるのです。しかし、ここにはもっと特別な意味があるそうです。Bridge For Peace(ユダヤ人の貧しい人々を助けている団体)のステーヴィンス栄子先生によれば、アブラハム、イサク、ヤコブはもう一度復活して、神の約束の通りにパレスチナを統治するのだそうです。これには驚きましたが、私は聖書の全てを知っているわけではないので、そういうこともあるかと拝聴しました。
22:20 これらの出来事の後、アブラハムに次のことが伝えられた。「ミルカもまた、あなたの兄弟ナホルに子どもを産みました。 22:21 すなわち長男がウツ、その弟がブズ、それにアラムの父であるケムエル、 22:22 次にケセデ、ハゾ、ピルダシュ、イデラフ、それにベトエルです。」 22:23 ベトエルはリベカを生んだ。ミルカはこれら八人をアブラハムの兄弟ナホルに産んだのである。 22:24 レウマというナホルのそばめもまた、テバフ、ガハム、タハシュ、マアカを産んだ。
これはハラン、後のパダンアラムにいたアブラハムの兄弟の消息です。この内、リベカが後にイサクの妻となる美しい物語に登場します。