ホームページ・メッセージ070819 小 石 泉
千の風になるのですか?
今日はバイブルランド・ミューゼアムをお休みして、テーマメッセージをいたします。
「千の風になって」と言う歌が大きな話題になっています。この歌が日本人にこんなにも感動を生んでいると言うことに、私は改めて日本人の魂の根底にある、“命への疑問”と“仏教的な心理”を感じました。
“命への疑問”というのは人間が必ず持っている疑問「私はどこから来てどこに行くのか」という根源的な疑問です。命とは何なのか? なぜ、私は生まれ、生きているのか? 私は死んだらどうなるのか? これは人間として生まれたら必ず感じる疑問で、本当は一刻も早く解決しなければならない問題です。大抵は小学生ぐらいから持つはずです。
しかし、まもなく、この質問は誰にしても答えてはもらえないのだということを悟るようになり、口にはしなくなるものです。ところが、この質問こそ人間が人間であることの証拠なのですから、答えがなければならないのです。しかし、誰に聞いても答えはなく、判らないままで、日々をごまかしながら生きているのです。
私たちは電車に乗るとき、必ず行き先を確認します。どこ行きか判らないで乗るということはありません。ところが人生という大きな旅行の乗り物には、行き先がわからないままで乗っています。その車両のほとんどの人は行き先を知らないので、まあ、みんな同じだから何とかなるさと乗っているのです。何と不確かなことでしょうか!
“仏教的な心理”と言うのは、この歌はいうまでもなく、輪廻転生を歌ったものです。風になるというのは、人が死んだら他の人になったり、何かの動物になったりすることに比べれば少しだけ霊的な感じがするのかもしれません。何かになることによって少しでも希望があると思うのでしょう。しかし、こういっては実も蓋もないと言われそうですが、そこには何の裏付けもなく、希望の光もありません。ただ感傷的な自己満足があるだけです。前に流行った「葉っぱのフレディー」もそうでした。葉っぱが落ちて、枯れて、養分となって別の命の糧となるというのも遠まわしではありますが輪廻転生でしょう。ある有名なクリスチャンを自称する老医師が、この本を推薦しているのを見て、この人はキリスト教が判っているのかなあと思いました。西洋にもこのような輪廻転生的な考えがあるらしく「人魚姫」もやはり最後は泡になり漂うという結末になっています。
十数年前に、小児がんの子供たちを見舞ったことがありました。子供のがんは特に気の毒です。子供のがんは急速に進行し数週間で死を迎えることが多いのです。先週まで元気なサッカー少年が足の痛みを訴え、調べると骨肉腫。片足が切り取られ、その切られた足の先が痛むと言い、次の週にはベッドは空いていました。直ったことになっていました。
あるお母さんが私にこう言いました。「死ぬっていやですね。自分が無くなってしまうなんて、耐えられません」。私は「いいえ、人間は無くなりません。体は無くなっても、魂は永遠に無くならないのです」と言いましたが、判ってもらえたかどうか。
ある非常に聡明な少年は私が牧師だと言うと論争を仕掛けてきましたが、「キリスト教は永遠の命を与える宗教だよ」と言うと信じて、喜びつつ天に召されました。
私は多くの人々が死を恐れ、嘆き悲しむのが気の毒でなりません。私には死はすばらしい望みです。私は死ぬことが、楽しみで、楽しみで仕方がありません。早く死にたいのです。しかし、自分で命を絶つことは出来ません。命は自分で生み出したものではなく、神から与えられたものですから、それを絶つことは神の主権を侵すことです。
「私のお墓の前で泣かないでください。私はそこにいません」と言う歌詞は、私にエルサレムにあるキリストの墓の扉の上に書かれた言葉を思い出させました。そこにはこう書かれていました。「その方はここには居られません。よみがえられたのです」。
これはキリストが復活した後に、墓に行った女たちに天使が語った言葉です。
あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。ルカ24:5〜6
「生きている方」と天使は言っています。そうです、キリストは死んだけれどもよみがえられて生きておられます。同じように信じるものは生きます。永遠に。
そんなことがあるとどうして判るのか、と言われるでしょうか。あれ以来、キリストの死体は世界のどこにも無いではないですか。釈迦の骨は大切に奉られるのに。もしキリストの骨があったら世界中で多くの教会がそれを分骨してもらって大繁盛するでしょうに。しかし、それは不可能です。キリストは復活されて、今も生きておられ、間も無くもう一度地球に帰ってこられます。帰って来られるのは“あの方”で、他の人ではありません。今度は女性から生まれるのではなく、天の雲に乗って来られます。
そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。マタイ24:30
キリストが来られるのは、私たちを天に迎えるためです。イエス様は十字架にかかる前にこのように言われました。
あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。ヨハネ14:1〜3
こう言うと、たちまち、荒唐無稽なたわごとか絵空事と思われてしまうのですが、これこそキリスト教の究極の救いであり、私たちの希望なのです。
「私はどこから来て、どこに行くのか」という人間の疑問への答えは、こうです。私たちは「神に造られ、神とともに生き、栄光を神に帰するために」いるのです。
主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。ミカ6:8
私はいつも教会の方々に話します。私が天国に行ったら、まず神様とキリストにお会いします。多くの聖徒たちともお会いするでしょう。それらが終わったら、天国のビデオルーム?に行き天地創造を見せていただきます。それから、まだあるなら、宇宙を旅行したいです。何しろ永遠の時間がありますから、どこにでも行けるでしょう。北極星でもオリオン星座でも、アンドロメダ星雲でも。
しかし、最も美しいのは、神が備えられた永遠の都、天のエルサレムでしょう。
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」黙示録21:1 〜4
私はどこから来たのか知っています。そしてどこへ行くのかもはっきりと知っています。かつて一度だけ、そこを垣間見たことがあります。若い時、一人で祈っていたとき、私は一瞬でしたが天国を見ました。それはあまりにも美しくてどう表現していいか判りません。白黒テレビとカラーテレビが違うように、この世の色彩と、天国の色彩はまったく違います。そして、最も印象的だったのは、そこでは全てのものが生きていることでした。草も木も花も色彩も、全てに命があり意思があって私に語りかけてくるようでした。その感動は数ヶ月間、私の中にありました。しかし、私は誰にも話しませんでした。信じてはもらえないと思ったからです。ある有名な伝道者が同じように天国では全てのものが生きていると言うのを聞いて、ああ、やはり本当だったのだと思いました。
私はまもなくそこに行きます。“私の墓の前で泣かないでください。私はそこに居ません。天国で神とともに生きていますから。”