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創世記 アブラハムVol.Z

18:16 その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていた。 18:17 主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。 18:18 アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。 18:19 わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」 18:20 そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。 18:21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」

 アブラハムに現れた三人の人々のうちの一人は“主”でした。主とは神のお名前ヤハウェを間接的に言い表した言葉です。(新改訳聖書では太字になっています。)この場合、父なる神と子なる神のどちらがアブラハムに現れたのかと思いますが、本来、神は三位一体ですから分けて考えることはおかしいのかもしれません。強いて言えば、父なる神は、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。Tテモテ6:16
とあるように、人間には見えないお方であるはずなので、現れたのは人となられる前の主イエスだったかもしれません。他の二人は高位の天使だったのでしょう。天使ガブリエルとミカエルかもしれません。
 彼らはソドムを観察するために天から来られました。この後、二人の天使がソドムを滅ぼすのですが、私たちは神様がこのように、地上の混乱や罪をそのつど介入されることを期待するものです。旧約聖書では神様が、頻繁に人間社会に介入されています。しかし、その結果はどうかというと、だからと言って、人間は悔い改めて神に帰ることはなかなかしなかったのです。ヨナの伝道で国中が悔い改めたニネベは例外です。それで、新約聖書の時代以降、神様は人間社会に介入されることを極力控えて、最後の審判まで罪や悪を裁かないのです。その時代を、聖書は「恵みの時、救いの日」と呼んでいます。

神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。Uコリント6:2

 それはまた、主イエスも言っておられます。

イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」マタイ13:24〜30

 「良い麦も一緒に抜いてしまうかもしれないから。」それが、今、神様が長い、長い忍耐をして人間社会に介入されることを控えておられる理由です。
 さて、次に非常に不思議な言葉が現れます。「主はこう考えられた。『私がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。』」 神は天地の創造者であって、誰に相談もせずにすべてのことを成し遂げ、決定されるお方です。ところがここでは御自分がこれからなさろうとしていることを、人に話すべきだと「考えられた。」というのです。神の心の中を誰が探り知ることが出来たのでしょうか。聖書の記者は人間ですが、書かせたのは聖霊だということがはっきりと分かる箇所です。

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。Uテモテ3:16

 そして、これからなさろうとしていることを、友であるアブラハムに告げます。これも驚くべきことで、人と神との関係を考えさせられるところです。それにしてもアブラハムとは何と神に信頼され、愛された人であったことか。

「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。」

 人の罪は、全て神の元に届いています。隠されることはありません。それは調査され、必ず裁かれます。生きている内でなくとも。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている ヘブル9:27

 旧約聖書では、多くの場合それは生きている日々の生活の中で行われました。

イラスト 渡辺百合
18:22 その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。 18:23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。 18:24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。 18:25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」 18:26 主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」 18:27 アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。 18:28 もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」 18:29 そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」 18:30 また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」 18:31 彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」 18:32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」 18:33 主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。

 そこはソドムとゴモラの見える高台だったのでしょう。と言ってもソドムとゴモラのあった場所は、もし今と同じ海抜であるなら、海面下400メートルですから、普通の台地から見ていたことになります。
 そこで、神と人との奇妙な交渉が行われます。これからソドムとゴモラを滅ぼすと言う全能者に対して、一人の被造物が、その考えを覆そうと必死に迫るのです。「もし、そこに50人の正しい人がいたら滅ぼしますか?」「いや、滅ぼさない。」、「45人では、40人では、30人では、20人では、10人では?」「滅ぼさない・・・。」ソドムとゴモラには10人の正しい人もいなかったのです。交渉は終わりました。
「主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。」神である主は去っていかれました。この後の記事から、ソドムとゴモラに行ったのは二人の天使だけですから、神様は天に帰っていかれたのです。神様が来られたのはアブラハムに語ることが目的だったのです。そして、アブラハムも「自分の家へ帰って行った」。神様と語り合い、自分の家に帰ったことがありますか? 
 アブラハムは沈痛な思いだったことでしょう。数万人が今から死ぬと分かっているからです。しかし、それは仕方がないことでした。今の世界も同じではないでしょうか。

罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。ローマ6:23(口語訳)