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創世記 Vol.23 アブラハムY

18:1 主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。 18:2 彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。 18:3 そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。 18:4 少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。 18:5 私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」彼らは答えた。「あなたの言ったとおりにしてください。」 18:6 そこで、アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言った。「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」 18:7 そしてアブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。 18:8 それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した小牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。

 旅人を手厚くもてなすのは砂漠の民の習慣です。旅人はラジオもテレビも無い時代には唯一のニュースソースでした。彼らは遠い国々の話や珍しい品物を持ってきました。
 しかし、それにしてもアブラハムの態度はそんな習慣では考えられない丁重なものです。彼はそこに現れた三人の旅人がただ者ではないことを瞬時に悟りました。その人々が天的な権威と力と清さとを備えていることを感じ取ったのです。私たちもこのような霊性を持ちたいものです。神の御子が私たちの側に来られたとき、それを悟らず、通り過ぎてしまわないようにしたいものです。イエス様が復活の後に二人の弟子に現れたとき、彼らは同じような経験をしました。

24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。 24:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。 24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。 24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。 24:17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。 24:18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」 24:19 イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。 24:20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。 24:21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、 24:22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、 24:23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。 24:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」 24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。 24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」 24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。 24:28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。24:29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。 24:30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。 24:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

 彼らがエマオと言う町に向かっていたとき、主が現れました。この二人はその人が主イエスだとは思いませんでした。しかし、主が歩きながら話されることを聞き、心は燃えました。「彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。それで、彼らが、『一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。』と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。」という箇所に注意してください、イエス様はどこかに行こうとしておられたのです。それを彼らは無理やりに引き止めました。もし彼らが無理にでも引き止めなかったら、イエス様は彼らから離れていかれたでしょう。そして素晴らしい、復活の主との出会いは、あいまいなものとなっていたかもしれません。
 アブラハムも弟子たちも、神様を無理にでも引き止める人々でした。イエス様でさえその御生涯で神様に必死に求めています。

キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。ヘブル5:7

 まして私たちはどれほど神を引きとめ、求めなければならないでしょうか。

イラスト:渡辺 百合          
18:9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます。」と答えた。 18:10 するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。 18:11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。 18:12 それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」 18:13 そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。 18:14 主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」 18:15 サラは「私は笑いませんでした。」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」

もう一度、神様はアブラハムに子供を与えるという約束をします。まるで自分がなさろうとしていることを楽しんでいるように、まるで友達のところに遊びに来た古い友達であるかのように、くつろいでお話されています。だからアブラハムは「神の友」と呼ばれたのです。すごいことですね。人間ってそんなにもなれるのですね。
 普通、砂漠の民のテントは男女別々に張られるか、一枚のテントを二つに仕切って、男女の住み分けをしていました。だから、「どこにいますか」という言葉をサラは天幕の外から聴いていました。サラは子供を与えるという主の言葉を聴いて笑いました。この笑いはアブラハムの笑いとは同じものだったのでしょうか。私はそんなに不敬虔な笑いだったとは思いません。不可能を可能にする。ありえないことを成し遂げる。神には不可能は無いという真理を、後世にまで鮮やかに印象付けるために、このように何度も何度も約束し、笑うと言う行為を通して、さらに鮮明にしたのだと思います。サラが「恐ろしかった」のは、怖いと言うのではなく、畏敬の念、敬う恐れを表しているのでしょう。
 こうして、もう一度、イサクの名「笑いちゃん」が決定づけられました。