メッセージ070624                    小 石  泉

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創世記Vol.19 メルキゼデク

14:18 また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。 14:19 彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。 14:20 あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。

 たった、この数行しか書かれていない一人の人物が、実に重大な使命を帯びているのです。これはどんな劇作家でも思いつかない、驚くべきストーリーの伏線として、旧約聖書と新約聖書に現れてきます。その名はメルキゼデク。彼はいと高き神の祭司と言われています。しかし、何の前触れもなく唐突に現れ、忽然と消えてしまいます。

イラスト 渡辺百合
 当時は都市国家という政治形態が一般的でした。一つの都市が一つの国家であり、その町の長が王でした。シャレム、(現在のエルサレム)はカナン人の都市だったと考えられています。ですからメルキゼデクはノアの子供のハムの子孫に当たるはずです。しかし、とにかくメルキゼデクは全てが謎、というよりたったこの数行しか書かれていないので、推測することが困難なのです。新約聖書のヘブル書にはこう書かれています。

このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。ヘブル7:1〜3

 (新改訳は旧約聖書ではシャレムと書いていますが、新約聖書ではサレムと書いています。)
 カナン人のメルキゼデクが「すぐれて高い神」(口語訳と共同訳では「いと高き神」)の祭司だったと言うのも不思議ですが、彼は主イエスの職務に絶対的不可欠の人物なのです。
 主イエスはキリストと呼ばれますが、それはヘブル語のメシヤをギリシャ語に置き換えたものです。そしてメシヤとは「油注がれたもの」と言う意味で、神の特別な職務のために聖別され(聖いものとして選び分けられること)頭から香油を注がれた人のことです。香油はオリーブ油にいくつかの香料を加えたもので、その調合方法がレビ記に書かれています。恐らく日本のような湿気のあるところなら香水で間に合ったのでしょうが、中東のような乾燥地帯ではすぐに乾いてしまうので油を使ったのでしょう。このメシヤには王、祭司、預言者がなりました。それぞれ就任するときに頭から香油をかけられて聖別されたのです。
 主イエスは王と呼ばれています。また、その働きから預言者と見なされていました。ところが祭司になることは出来ませんでした。なぜなら、祭司はレビ族から出ると決められていたからです。主イエスはユダ族の出身です。ところが主は十字架におかかりになって後に、御自分の血を携えて、天にある真実の幕屋(天幕の神殿)に入られて人類の贖いをなさいました。

しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。ヘブル9:11〜12

 この時、主イエスの祭司職の資格はレビ族のものではなく、メルキゼデクのものでした。

主は誓い、そしてみこころを変えない。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」詩篇110:4

別の個所で、こうも言われます。

「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」ヘブル5:6

によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。5:10

イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。6:20

 このためにアブラハムを祝福したメルキゼデクが必要でした。

その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。 レビの子らの中で祭司職を受ける者たちは、自分もアブラハムの子孫でありながら、民から、すなわち彼らの兄弟たちから、十分の一を徴集するようにと、律法の中で命じられています。ところが、レビ族の系図にない者が、アブラハムから十分の一を取って、約束を受けた人を祝福したのです。いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。一方では、死ぬべき人間が十分の一を受けていますが、他のばあいは、彼は生きているとあかしされている者が受けるのです。また、いうならば、十分の一を受け取るレビでさえアブラハムを通して十分の一を納めているのです。 というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。 さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、――民はそれを基礎として律法を与えられたのです。――それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、 私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。7:47〜13

私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。 もしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。 その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、 ――律法は何事も全うしなかったのです。――他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。 また、そのためには、 はっきりと誓いがなされています。 ――彼らのばあいは、誓いなしに祭司となるのですが、主のばあいには、主に対して次のように言われた方の誓いがあります。「主は誓ってこう言われ、みこころを変えられることはない。『あなたはとこしえに祭司である。』」―― そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。また、彼らのばあいは、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、大ぜいの者が祭司となりました。 しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。 ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。 律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。7:14〜:28

 つまり、こういうことです。キリストはユダ族の出身なのに天の幕屋で大祭司が行う罪の贖いの儀式を行われました。それは本来ならレビ族の大祭司が行うのですが、キリストの祭司職はレビの曽祖父に当たるアブラハムを祝福してアブラハムから十分の一の捧げ物を受け取ったメルキゼデクの祭司職を受け継いだものだと言うことです。何という壮大なご計画。そしてご自身の定められた律法に違反しない一貫した厳格さ、厳密さ!
 神様はキリストの生まれる1000年も前に、キリストの職務に必要な道筋を作り、そのためにメルキゼデクという人物を立てられたのです。この人は普通の人なのか、それとも天使なのか、ヘブル書の記者は「サレムの王、すなわち平和の王です。父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです」と書いています!!!

アブラハムとその子孫
アブラハム――イサク――ヤコブ――ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、
ダン、ナフタリ、ガド、ゼブルン、アセル、ヨセフ、ベニヤミン

 それにしてもレビ族の祭司が仕えていた地上の幕屋があったのに、天にも幕屋があるのでしょうか。

その後、また私は見た。天にある、あかしの幕屋の聖所が開いた。黙示録15:5

 ヨハネは天にある幕屋を見ました。キリストは復活の後、天に行って贖いの業、御自分の血を幕屋の至聖所にある契約の箱のふたの上に注がれたのです。これが贖いの業です。もっとも天の幕屋が地上のものと同じ構造になっているのかどうかは分かりません。人間に分かるように書かれているのでしょう。
 地上の贖いの業は、十字架にかかられた時に、わき腹を刺されて流れた血が、地震で割れた岩の裂け目から、ゴルゴタの丘の下に隠されていた契約の箱のふたの上に落ちていたと言うロン・ワイアットさんの証言を信じるなら完成されていました。これは驚くべき報告ですね!

14:21 ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」 14:22 しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。 14:23 糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。 14:24 ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」

 その後のエピソードはアブラハムのひととなりを知ることは出来ますが、霊的、または真理という意味ではそれほど重要なこととは思えません。ただ、3000年も前のこんな会話が今に残っているというのもすごいことですね。それにしても新改訳のこの訳は何だかアブラハムらしからぬ、はしたない粗野な言葉ですね。