メッセージ  070520                小 石  泉

キリストを知る知識の価値


わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。 ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。ピリピ3:5〜16(口語訳)

 またしても悲しい事件が起きました。いいえ、悲しいとか恐ろしいとかではなく、唖然として言葉になりません。自分の母親を殺して、その首を持ち歩き、警察に自首した。家には母親の右腕が植木鉢に植えられ、スプレーで塗装されていたなんてかつて聞いたこともありません。この少年は、血の通っていない人間か、それこそどこか別の星から来た生物(エイリアン)ではないのかとさえ思います。その方が、まだ心安らかです。私はこのニュースが外国に伝えられたときどんな反響を呼ぶかとても気になります。日本人はなんと恐ろしい民族なのか・・・と。
 「人は神に出会うまで放浪者だ」というのは聖アウグスチヌスの言葉ですが、本当に、日本の人々の心は空しい荒野をさ迷っているかのようです。
 パウロ先生はキリストに出会うまで、ユダヤ教を熱心に信じていました。彼はそういう意味では放浪者ではありませんでした。しかし、キリストに出会ったとき人間の本当の生き方を知ったのです。「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている」口語訳のこの「ふん土」という言い方はちょっと良くありません。ごみ、くず、ガラクタと言う意味です。彼は将来を嘱望されていた秀才でした。当時、最も尊敬されていたガマリエルというラビの門下生の優等生だったのです。今の日本で言えば東大の最高の教授の筆頭助手と言ったところでしょう。しかし、彼はそれら全てを捨てたことを少しも惜しいとは思いませんでした。
 しかし、間違えないでいただきたいのは、クリスチャンになったら、この世を捨てなければならないわけではないという事です。私は牧師になったことを後悔したことがあります。そうでなくてこの世でクリスチャンとして有益なものになることのほうが、私は、神の役に立ったのではないかと思うのです。クリスチャンこそ社会のトップに居るべきなのです。政治家、裁判官、財界人、弁護士、技術者、教育者、その他のあらゆる分野で、生きることの本当の意味を知っているクリスチャンが有能な働きをして欲しいものです。
 ただ、この世の地位、名誉、財産に目的を置かないということです。そんなものはごみ、くず、ガラクタだと分かっているからです。例えば、一年に一度秋の叙勲というニュースが流れます。勲何等何々大褒章。そういうものをもらうと、自分が何かひどく偉くなって価値のある人間になったような気がするのでしょう。しかし、クリスチャンにとってこの世の勲章など正にごみ、くず、ガラクタです。私たちにとって永遠の国でいただく褒章こそ本当に価値あるものだからです。パウロは「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」と言っています。勲位はよく墓石に刻まれるものですが、永遠の国では何の意味もありません。

また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。1コリント9:25
なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
Uコリント4:17

 しかし、私は褒章とか賞与とか栄冠とか言う前に、キリストと神を知る知識そのものが圧倒的な栄冠だと思います。私には神とキリストを知らない人生なんて考えられません!もし本当に神の存在と人となられたキリストを知らなかったら、私は暗黒の中をうごめく虫のように惨めなものでしょう。仕事も家庭もレジャーもおいしい食事も何の意味もありません。さらに、死後、神の国に生きるという望みもなく生きるなんて! どうして、そんな人生が生きられるのですか、日本の99.5%の人々よ! 「この人生に生きる意味があるのですか?」 そう、子供たちが聞いたときに何と答えるのですか? 「良い大学に入って、良い会社に就職して、良い暮らしをして、死ぬだけ、人生ってそれだけなの、お父さん、お母さん?」 子供たちは無言のうちにこういう質問をしているのです。この質問に正しく答えることが出来るのはクリスチャンだけです。
 それにしても、と私は思います。私にとってこれだけで十分です。私にとって「主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値」だけで他に何もいらないのですが、現在の教会ではどうもそれだけではいけないようなのです。なにやら細かいプログラムと行き届いたケア、どこかのエンターテインメントの舞台のような華やかな仕掛けが必要なようです。私はそれが悪いとは思いません。力と知恵を尽くして福音を述べ伝えるのは良いことです。どうも私はもう古い人間の部類に入ったのかもしれません。

イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」マタイ4:4

 今、改めて主の御言葉が現実のものだと実感しますね。物質的には満ち足りた日本。しかし、その中で子供たちは魂の糧を求めて餓え乾いています。家庭にも学校にもそれはありません。かつては仏教や神道が幾分かはその役目を果たしていました。しかし、もう厳しい時代の選別の中で淘汰されていきました。しかし、なぜか真理であるキリストの教えには耳を傾けようとはしません。

あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。黙示録3:17

 言い古されたことですが、このラオデキアの教会への忠告が、日本の現状にあまりにも当てはまります。中国に行くと逆に貧しく乏しいのですが必死で生きている人々には希望があります。そしてクリスチャンはあの共産主義に中で人口の10%にもなるのです。
 ただし、私たちが全てを完全に獲得しているわけではありません。
わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
 あのパウロ先生にして「捕らえたとは思っていない」と言っています。一生、追求するのだと。この謙虚さをこの世の人々と比べてみてください。豊臣秀吉は関白太政大臣という地位を皇室から受けました。しかし、死ぬとき「露とおき露と消えにしわが身かな、難波のことは夢のまた夢」と言ったといわれます。貧しい百姓から身を起こし、民間人としては普通は得ることが出来ない最高の地位を得ながら “難波のこと”大阪城を建てたような出世も、露のようなはかないものだったと言ったのです。徳川家康は征夷大将軍という天皇に次ぐ日本の実質的な最高位に付きましたが「人生は重き荷を負って遠い道を歩むようなものだ」と慨嘆しています。結局、彼らには本当の満足はなかったのです。
 しかし、パウロ先生は天での「神の賞与」を得ようとしているといっています。新改訳では「栄冠」新共同訳では「賞」KJVは「prize」TEVも「prize」なので「賞」が一番適切でしょう。永遠に朽ちることのない神からの慰めと誉れ、それが本当の「価値」です。この世の誉れも賞も「ごみ、くず、ガラクタ」です。
 ただ、そのことを良く心に止めておいて、この世にあって最善の働きをしてください。日本の昔のクリスチャンは一種の世捨て人のような考えを持っていました。この世の地位と名誉は持ってはいけないものだと考えました。しかし。与えられるなら受け取るべきです。ただその事に、自分としては価値を置かないのです。

義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。箴言4:18