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創世記Vol.12   ネピリム

6:1 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、 6:2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。 6:3 そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。 6:4 神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。 6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。 6:6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。 6:7 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」 6:8 しかし、ノアは、主の心にかなっていた。

 ―この箇所について2003年7月13日のメッセージから一部を再録します―
 ここは聖書でもっとも難解なところと言われています。この神の子とは誰のことかです。健全な信仰者を自称する人々は、これは神に不従順だったカインの子孫、人の娘というのは忠実なセツの家系だといいます。しかし、それではなぜネフィリム、ネピリム(巨人)が生まれてきたのかという説明ができません。
 ヨブ記には同じ言葉が現れます。
ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。1:6
 これはどう考えても天使たちのことです。その中には堕落した天使長ルシファーの成れの果て、サタンもいたと書かれています。ここも不思議な箇所です。
 では創世記の記事は天使それも神に反逆した堕落天使(悪霊)を神の子と言っているのでしょうか。しかし、イエス様は天使には性別はないと言っています。

復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。マタイ22:30

 かつてサタン礼拝者の世界にいて、その後キリストによって救われた私の友人シスコ・ホィーラー姉によると、堕落天使(悪霊)は天国では性別はないが、地上に来ると男にも女にもなれるそうです。イエス様は天国のことだけお話になったのだといいます。
 本当かどうかはともかくとして、このネピリムはもしかするとただ大きい人間というのではなく人間以外のものとの混血児かもしれないのです・・・?? とても信じられないことですが聖書をそのまま読む限りそうなります。それにもかかわらずダビデはネピリムであるゴリアテと戦って勝利しました。ネピリムを相手にしたと考えるとき、改めてダビデの勇気と信仰の偉大さを思います。
 もう一つのケースを見ましょう。それはモーセに率いられてエジプトを脱出し約束の地カナンの入り口に来たときのことです。モーセは12人のスパイを送りその地を調べさせました。そして帰ってきた彼らは次のように報告したのです。

しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。民数記13:28・・「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」13:32〜33

全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。14:1

すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」14:6〜:9

 12人斥候(スパイ)の内、ヨシュアとカレブだけが信仰によって勝利を確信しましたが、他の10人は恐れました。彼らはそこにネピリムがいたと言っています。アナク人とはネピリムの別名のようです。あの得体の知れない巨人がいたのです。彼らが恐れるのも無理のないことです。しかし、ヨシュアとカレブはネピリムを恐れませんでした。
 これからお話しすることは、一般の教会では到底語られないひどくオカルト的な話です。しかし、私にはなぜか納得できる点があるのでお話します。
 あのシスコ・ホィーラーさんはすごいことを教えてくれました。当時、人間と堕落天使の間に出来た子供からさらに多くの子孫が生まれて来ました。そして、人間のDNAが堕落天使のDNAと混じり合って純粋な人間がいなくなったというのです。だから6章9節 の「これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」と言う言葉の「全き人」と言うのはDNAが完全な人だったという意味でもあると言うのです! これは驚く人が多いと思うし、たちまち「怪しい牧師だ」「異端だ」と言われるでしょう。(もう慣れましたが)しかし、天使にDNAがあると言うことが出来ないなら、ないと言うことも出来ないはずです。私たちは天使については知っていることよりも、知らないことの方が多いのです。そして、せっかく造った人間をことごとく滅ぼすと言う、神のあまりにも無慈悲な行動を理解するのに、これなら何とか出来るのはないでしょうか。少なくとも私は胸のつかえが降りました。
 巨人に関しては今、多くの巨大な人間の化石が発掘されています。ゴリアテの身長は約3メートルでしたが、7メートル、10数メートルの人骨が実際に発掘されているのです。しかし、こういうニュースはほとんどオカルトの世界だけで消えてしまいます。
 オカルトの世界にはもっと奇妙な話があります。グリゴリと言う堕落天使の子供のことです。「人間の見張り役として天から遣わされた200人の長身の天使達。叛逆と知りながら全員が人間の娘と結婚した。生まれた子は1350mの身長を持つ巨人だった。グリゴリが人間に様々な知識を教えてしまった為、地上には戦争や姦淫が横行した。それを知った神は怒り、ノアと箱船の乗員を除いた一切の生命を流し去った。」 by natumeyasiより引用
 実は、この馬鹿げた話を書くのには理由があります。このものすごい長身のグリゴリのことを英語でwatch towerと言います。「ものみの塔」です。エホバの証人の創立者であるC.T.ラッセルはこういう知識に精通していました。だから彼がエホバの証人の別の名前に「ものみの塔」とつけたのは、このことと無関係ではないはずです。
 ネピリムは古代において有名であり勇士でした。彼らは洪水で滅ぼされましたがその後も時々旧約聖書の中に現れています。もしかしたら全く例外的に洪水を生き延びたのでしょうか、あるいは堕落天使たちが再び人間の娘と交わったのでしょうか。その後の歴史で、神様がヨシュアたちにカナンの町々の男女幼児に至るまで絶滅するように命じておられるのは同じようにネピリムを根絶するためだったとするなら納得いく話です。
 さて、いずれにしても人間が途方もない悪に走り、互いに殺しあうようになった陰には堕落天使の影響が深くあったのです。しかし、聖書はそのことをあまり詳しく書いていません。それは人間が自分の責任を全て悪霊に押しつけて自分を正しいとするといけないからではないでしょうか。

6:9 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。 6:10 ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。 6:11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。 6:12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

この歴史もトーレドート、系図です。ノアもエノクのように「神とともに歩んだ」とあります。ノアは「全き人」とありますが、それは欠点のない、清廉潔白な人という意味ではありません。彼は洪水の後、ぶどう酒に酔っ払い素っ裸で寝ているところを子供のハムに見られています。ただ神とともに歩むことにおいては完全だったのです。
 3人の子供の名前は暗示的です。セムは「名声」、ハムは「色黒」、ヤペテは「色白」です。このことから、彼らが黄色人種、黒色人種、白色人種の祖先だったとする考え方もありました。今はそうでもないと言われていますが、暗示的ではあります。実際、セム、ハム、ヤペテ人種の分布はそれに近いものがあります。
 「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。」悲しい現実です。エデン、喜びの園から追われた人間がこのような悲惨な歴史をたどるとは、神様はご存じなかったのでしょうか。神様が愛のゆえに人間に与えた自由は、このような結果を生み出したのです。それは人間の本当の正しさは、悪を知った上でもたらされなければならなかったのです。エデンの園で持っていた善はひ弱で身についた本当の善ではありませんでした。人間は自分の力では神の前に正しく歩むことが出来ませんでした。ノアやエノクは例外的な人です。
 それゆえにイエス・キリストは十字架におかかりになり、罪の身代わりになられました。そしてノアやエノクでさえそのわずかな罪もイエスの十字架によって清められなければなりません。人は罪故に悲惨であり、キリストの救いの故に栄光に変えられるのです。