ホームページ・メッセージ070415 小 石 泉
Bible Land museum
バイブルランド博物館
創世記Vol.10 カインの追放
4:8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。 4:9 主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」 4:10 そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。 4:11 今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。4:12 それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」 4:13 カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。 4:14 ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」 4:15 主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。 4:16 それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。
人類最初の家庭は一日のうちに死者と殺人者を出してしまいました。しかも、兄弟同士です。アダムとエバの悲しみはいかほどだったことでしょう。エデン「喜びの園」から出た人類の家族はたちまち「悲しみの地」に住むことになりました。エバは自分が犯した罪のゆえに愛する息子を二人とも失ったのです。胸も張り裂けるほどの悲しい結末です。
ところで人類最初の殺人が、神への礼拝に対する妬みから起こったというのは驚くべきことです。カインの宗教感がいかに間違ったものであるかが分かります。イスラム教は異教徒を殺せと教えます。ユダヤ教のタルムードもキリスト教徒を殺せと教えています。(サバス〔安息日〕116a)共にカインの末裔ですね。主イエスは「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」マタイ5:44 と教えます。(私がこう言う事をいうとたちまち反ユダヤと言われますが、そういう人はタルムードを少しでも知っているのでしょうか。無知のゆえに人を裁くことは正しいことではありません。間もなく私のような発言者は監獄行きとなるでしょう。)
「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われたカインは「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」と答えました。。カインの答えにはアダムのためらいや焦りや責任転嫁がありません。平気で白を切る。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。」彼には罪への恐れや反省が無いことに注目してください。善良な人には理解できないのですが、人間の中にはカインのように罪責感の無い人がいるのです。
「ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」この言葉はカインのような罪人でも、なお、神に愛され、神と近くいたことがうかがえます。今とは違ったのでしょう。そしていつも不思議に思うのはこの時すでに多くの人間がいたに違いないことです。全てアダムとエバの子孫なのでしょうか。鼠算的に増えていったのでしょうか。それともアダムと言うのは人間を代表する名前なのでしょうか。
いのちのことば社から出ている「創世記の謎を解く」の著者ヒュー・ロス氏は、930歳生きたアダムが子供を生める年数を600年間とし、4年に一度子供が生まれていたとすると、200歳のとき、世界の人口は1704人、400歳のときは838000人、600歳のときは4億1200万人、760歳のときは586億7000万人になっただろうと推定しています。そんなに人口が増えなかった理由の最大のものは殺人であろうとも言っています。そしてそのような殺人が人口削減の最大要因となったのはノアの大洪水以来、現在が初めてだと言います。
さて「だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。」という カインのしるしとは何でしょうか。誰が見てもひと目で分かるしるしだったのでしょう。
「それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。」
カインが去ったのはエデンではなく「主の前」でした。ノデと言うのは口語訳でも新共同訳でもノドとあり、KJVではnodとあるのでノドでいいと思うのですが、なぜ新改訳はノデと言ったのか分かりません。新共同訳で「カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。」とあるように、ノドは“さまよう、放浪”と言う意味です。TEVも「And Cain went away from the Lord's presence and lived in a land called "Wandering," which is east of Eden.」と“さまよう”と訳しています。神の前を去ると人はさまようのです。聖アウグスチヌスは「人は神に出会うまでさまようものだ」と言っています。ノドの地とは本当にあった地名なのか、それともこのような思弁的なことを表しているのかわかりません。
4:17 さて、カインは、その妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。 4:18 エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。 4:19 レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。 4:20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。 4:21 その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。 4:22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。 4:23 さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。 4:24 カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」
これは悪人の系図です。「カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。」町を建てると言う行為は王、または首長のすることです。と言うことはすでにカインは数千〜数万人の人を束ねる地位にいたのでしょう。
次に出てくる子孫の名前はそのひととなりを表しているようです。まず、エノクは「先生」です。カインの子孫にしては良い名前です、この後に生まれるセツの家系にも、敬虔で有名なエノクがいます。イラデは分かりませんが、イラが「観察者」と言う意味なので何か関係があるかもしれません。メフヤエルは「神は戦う」です。何だか荒々しい神をイメージしてしまいます。メトシャエルは不明。問題はレメクです。「投げ捨てる人、野生の人」と言う意味で荒々しい乱暴者だったのでしょう。彼は初めて二人の妻を持ちます。アダは「楽しみ」ですが、ツィラは「保護する、覆う」と言う意味でちょっと救われる気がします。アダの子はヤバルで「移動する」、その弟のユバルは文字通り「遊牧の民」です。彼らは兄弟そろって羊を追っていたのでしょう。ユバルは「立琴と笛巧みに奏するすべての者の先祖となった」ので、最初の音楽家です。トバル・カインは不明ですがカインと言う名から先祖の名を継いでいるとも言えます。またトバルは現在のロシア南部の地名のトボルスクの原型です。「青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋」とあります。すでに銅や鉄が用いられています。彼は鍛冶屋と言っても相当な地位と富を築いたのでしょう。ナアマは不明ですがナウムが「陽気な」と言う意味なのでそれに近いかもしれません。
「さて、レメクはその妻たちに言った。『アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。』」レメクのこの言葉は殺人を誇り、強さを誇示する凶悪な人物を連想させます。カインの復讐が七倍なら、自分の場合は七十七倍とは強がりも良いところで、ふてぶてしい粗野な人格が現れています。総じてカインの子孫は人間の罪がたちまち凶悪で暴虐に満ちた世界を作り始めたことを示しています。部族間同士の戦いも大いにあったのでしょう。神を恐れない、野蛮で不道徳なその後の人間社会の原型となりました。
4:25 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」 4:26 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。
こうして人間社会が荒れすさんでいく一方で、希望の光がさしました。セツの誕生です。セツは「償い、補う、新芽」と言う意味ですが、エバの言葉のようにアベルの死を償い補う子供の誕生だったのでしょう。この時までに子供が生まれなかったのではないと思いますが、セツのひととなりからこのような希望の言葉が語られたのでしょう。しかし、セツの子のエノシュは「死ぬべきもの、弱きもの」と言う意味なので、アベルの記憶が生々しく残っていることが考えられます。あるいは体が弱かったのかもしれません。セツはアダムが百三十歳のときの子供ですから、生まれた人類はアベル以外はまだ誰も死んで居なかったはずです。
この時から「人々は主の御名によって祈ることを始めた。」とあります。この主と言うのはモーセの求めに応じて教えられた神様の本名「ヤハウエ、ヤーエ」です。ヤハウェは「存在する」と言う意味です。アダムたちは神に礼拝を捧げるときに名前を呼ばなかったのでしょう。そういう必要は無かったのです。名前とは他のものと区別するために付けられるものです。それでこの時すでに人間は自分勝手な宗教を作り出していたのかもしれません。そのために正しい神の名が必要でした。ここに人類は初めて神を正しい名で呼び始めたのです。