ホームページ・メッセージ070401 小 石 泉
Bible Land museum
バイブルランド博物館
創世記Vol.9 カインとアベル
4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。
4:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
イラスト渡辺百合
4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。
4:4 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。
4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
4:6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
4:7 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
「 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、『私は、主によってひとりの男子を得た。』と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。」
ヘブル語では「知る」という言葉には多くの意味があるようです。この場合は性的関係を結んだということです。面白いことに「知る」という言葉をヘブル語では「ヤダー」と言うのですから、日本人には何となく、分かりやすいですね・・・・。
アダムとエバがこの時まで、子供を生んでいなかったのか、それともすでにエデンの中で子供を生んでいたのかは分かりません。ただ、カインとアベルのほかにもすでに人間がいたようなのです。これは大きな謎の一つで、私は天国に行ったらぜひ神様に聞いてみたいものだと思っています。
カインとは「獲得する」、アベルとは「はかない」とか「死」を意味することばです。聖書ではヨセフが父ヤコブの葬式をしたときに、カナン人がこの言葉を使っています。
「彼らはヨルダンの向こうの地ゴレン・ハアタデに着いた。そこで彼らは非常に荘厳な、りっぱな哀悼の式を行ない、ヨセフは父のため七日間、葬儀を行なった。その地の住民のカナン人は、ゴレン・ハアタデのこの葬儀を見て、「これはエジプトの荘厳な葬儀だ。」と言った。それゆえ、そこの名はアベル・ミツライムと呼ばれた。これはヨルダンの向こうの地にある。」創世記50:10 〜11
ミツライムというのはエジプトの古い呼び方です。ですからアベルとは葬式という意味で使われているわけです。まさか自分の子が生まれたときに「葬式」や「死」などという名前をつける親はいないと思うので、これは彼が死んだ後に付けられたものでしょう。あるいはアベルという名前から死という概念が生まれたのかもしれません。それまで死はなかったのですから。
「ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」
「ある時期になって、」というのはカインとアベルが父母から独立して家長となったという意味です。礼拝は家長の仕事です。
新改訳聖書が発売されたとき、私はここのところに非常に驚きました。「それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た」という言葉です。これは明らかに翻訳者が、アベルの捧げ物が神に省みられたのは、アベルの敬虔な「態度」にあるといいたいのです。他の聖書にはこういう形容はありません。
アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。(口語訳聖書)
アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。(新共同訳聖書)
Abel also brought of the firstborn of his flock and of their fat. (KJV)
Then Abel brought the first lamb born to one of his sheep, killed it, and gave the best parts of it as an offering. (TEV)
どの聖書も「それも」とか「自分自身で」などという言葉はありません。新改訳聖書の翻訳者はなるべく分かりやすいようにとこのような言葉を加えたのでしょうが、実は自分が一番分かって居ないことを表しています。これはひどい訳です。恐らく世界の聖書翻訳史上最悪の訳の一つでしょう。
ところが驚いたことに日本の有名な聖書学者が書いた、注解書にも全く同じ誤りがあるのです。恐らくこの訳者とこの注解書の著者は同じ人でしょう。神学博士か神学校の教授か知りませんが、こんな重要な箇所にこんな馬鹿げた、幼稚な解説をしていることに私は驚きあきれました。彼はこう書いています。
「カインとアベルは神の命令によってではなく,それぞれ自発的に神に収穫感謝のささげ物をする.アベルとそのささげ物は受け入れられたが,カインとそのささげ物は御心にかなわなかった.その違いは,アベルが羊の初子の中から最良の物をささげたことに見られる.アベルは信仰により真心から最善の物をささげたが,カインはそうではなかった(ヘブ11:4,Tヨハ3:12)
.ささげ物の種類ではなく,人とその態度に原因があったのである。」
(コンピューターソフト「聖書の達人」中の「聖書注解」より)
実は、なぜカインの捧げ物が省みられず、アベルの捧げ物が省みられたのかは、昔から多くの人々にとって謎だったようです。ジョン・スタインベックの「エデンの東」はそれを題材にしているようです。カインの捧げ物だって省みられるべきだったと。
これは聖書の原則が分かれば簡単に分かることです。それは、神は聖なるものだから、罪あるものは、罪を覆う血を携えないでは神の前に出てはならない、ということです。旧約聖書においては動物の血、新約聖書においてはキリストの血が私たちの罪を覆います。これは非常に重要なことですから、カインとアベルはそのことを父のアダムから教えられていたはずです。罪を犯したアダムとエバを覆った毛皮を取るために動物(羊?)が殺されたのはこのことを表しているのです。カインは羊をアベルから買うか、もらうかしてでも犠牲を携えていかなければならなかったのです。そうでないと罪のままで神の前に出ることになります。その後で野菜を捧げればよかったのです。罪の犠牲の血を持たない礼拝は世の宗教に見られるものです。それは人間の誇りを表しています。
マタイによる福音書22章でイエス様は礼服をつけないで王の宴会に出た人のことを語っています。礼服は誰でも王が入り口で貸与してくれました。しかし、この人は王の与える礼服を拒絶して自分の服で入ったきたのです。それで追い出されました。同じようにカインも自分の罪を覆う血の礼服を着ないで、自分の労働の実を捧げようとしました。
時々、カインとアベルの礼拝の絵を見ると、羊が生きていることがありますが、生きた羊を捧げた後でまた連れて帰るわけはないのです。殺して捧げたのです。面白いことに、TEV(Today’s English Version)はkilled it、「殺した」という言葉を入れていますがこのような挿入は許されるでしょう。
「目を留められた」というのは実際にはどういうことだったのでしょう。エリヤの時には天から火が下って捧げ物を焼き尽くしました。この場合は何も書かれていませんが、はっきりした現象があったのでしょう、だから「カインはひどく怒り、顔を伏せた」のです。カインは罪の贖いの真理が分かっていなかったために怒りました。そして弟を殺しました。罪のままで、罪の導くままに。
「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
このように、神様は「カインの礼拝の方法が間違っている」とはっきり言っています。カインは知っていたのです。罪が戸口で待ち伏せして、恋い慕っているという擬人化した言い方は興味深いですね。罪は私たちの内にあって別の人格となるかのようです。
パウロもローマ書で言っています。
私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。7:15〜:20
人は罪を「治めるべきである」と言われています。しかし、罪はパウロ先生ですら「自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています」というぐらい治められないものです。罪は主イエスの贖いによってだけ清められ、長い苦闘の末に少しづつ、少しづつ治めてゆけるものなのです。