ホームページ・メッセージ070318 小 石 泉
Bible Land museum
バイブルランド博物館
創世記Vol.7 エデン追放
03:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。 3:9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」 3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」 3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」 3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」 3:13 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
3:14 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。 3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」 3:16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
イラスト 渡辺百合
3:17 また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。3:19
あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」
3:20 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。
3:21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
「そよ風の吹くころ、」口語訳聖書では「日の涼しい風の吹くころ」となっていて、一番美しい訳のように思えます。共同訳は「風の吹くころ」、KJVは「cool of day」、TEVはただ「evening」です。結構、味気ないですね。どうでも良いじゃあないか、という方に申し上げたい、このほんの一言の中にエデンの静けさ、麗しさ、清らかさ、神の歩む音のかすかな響きを感じ取らないとしたら、詩的センスがないですよ。創世記の記者はそのことを伝えたかったのでわざわざこんな無意味に見える言葉を入れているのだと私は思うのです。
「彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」この「主の声」という訳が果たして適切なのかどうか疑問に思います。口語訳、共同訳、KJV共に「音」と訳しています。音とも声とも訳せるのかもしれませんが、「歩き回られる声」では日本語としておかしいです。「歩きながら話される声」としなければなりません。新改訳聖書はしばしば日本語になっていないことがあります。
アダムとエバにとって神様がエデンに来られるのはうれしい事だったに違いありません。幼子がお父さんの帰ってきた足音を聞きつけて「あ、お父さんだ」と玄関に駆けつけるようなものです。しかし、その日は違いました。やってはいけないことをした幼子がお父さんの足音におびえるように、アダムとエバは神様の足音におびえて、あわてて木の間に隠れました。昨日までと今日とでは何という違いだったことでしょう。それは何と主イエスが十字架におかかりになりアダムの罪を全く拭い取ってくださるときまで続いたのです。今や、私たちは神の歩かれる音におびえる必要はありません。
「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」ヘブル4:16
「 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』あなたはどこにいるのか。」これは、それ以来、常に神が人に呼びかけている言葉です。全能の神は彼らがどこにいるのか分かっていました。しかし、人に自分の位置の自覚を促すために、呼びかけられたのです。
「彼は答えた。『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。』すると、仰せになった。『あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。』人は言った。『あなたが私の側に置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。』そこで、神である主は女に仰せられた。『あなたは、いったいなんということをしたのか。』女は答えた。『蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。』 」
彼らが隠れたのは禁止されたことを犯したからです。しかし、アダムは「裸だったので」ともっともらしい理由をつけています。むしろ「あなたが禁じられた木の実を取って食べたので」と正直に答えるべきでした。早くも罪のきざしが見えています。そして、「木から食べたのか」という質問には「あなたが私の側に置かれた」と、神の責任とでも言わんばかりの態度です。そして「この女が」とさらに責任回避をしています。「骨からの骨、肉からの肉」と言ったあの愛の言葉とは何と言う隔たりでしょう。しかし、アダムのあわてぶり、困惑、反省、しどろもどろの弁解はひとごととは思えませんね、何だか私たちも人生のどこかで同じような体験をしてきたように思います。
「そこで、神である主は女に仰せられた。『あなたは、いったいなんということをしたのか。』女は答えた。『蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。』」
アダムに比べて、エバの返事は潔いとさえ思えます。淡々と事実だけを語って、あまりくどい責任回避の弁解はありません。女性はこういうとき強いですね。
「 神である主は蛇に仰せられた。『お前が、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。』」
蛇はこの時から地を這うものとなりました。そして、「おまえの子孫と女の子孫との間に敵意を置く」という奇妙な言葉が続きます。これは明らかにキリストの受難と、サタンの滅びを意味しているのです。サタンはキリストを十字架につけ、間もなくキリストはサタンを滅ぼします。この子孫と言う言葉はどちらも“単数形”であることに注意してください。キリスト御自身と、反キリスそのものを表しているのです。
それにしても蛇は生物のようであり、またサタンのようであり、その関係がいまいち分かりません。総じて旧約聖書はサタンについて言及することに慎重です。全部で14回しか出てきません。(新約聖書では35〜36回、悪魔も同じぐらい出てきますが、旧約聖書では出てきません。悪霊は旧約では3回、新約では73〜78回です)なぜだろうと思いますが良く分かりません。これは大きな宿題です。
「女にはこう仰せられた。『私は、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。』また、アダムに仰せられた。『あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。』」
女は罰として妊娠と出産の苦しみを与えられました。韓国には「女は三人子供を生むと虎になる」という言葉があるそうですが、出産の苦労と陣痛の痛みはこの時から始まったのです。やれやれ。
あのサリドマイドが作られたとき、つわりを軽くすると言うことで世界中がこの薬を認めました。しかし、アメリカの厚生省の女性のクリスチャンの役人が、創世記の言葉に逆らうこのような薬は良いものではないという確信から、許可を与えなかったために、アメリカでは一人もエンゼルベビー(手足のない子供)は生まれなかったという話を思い出します。彼女はその後、ケネデイ大統領によって表彰されました。
男には労働の罰が言い渡されました。しかし、これはそれほどひどい罰とはいえない気がします。労しない方が辛いし、農産物の成長と収穫は楽しいものです。しかし、彼らは死んで土に返ることになりました。
「さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」
この時初めて女にエバと言う名前が付けられました。エバはよくイブと言われますが、日本語の聖書では常にエバです。この言葉は原語に近い発音では「ハバ」で「命」と言う意味です。女性は命を生み出すからです。