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創世記Vol. 4 人間の創造

2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。 2:2 それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。 2:3 神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

天地が創造されて完成したとき、神様は休まれたとあります。喜びをもって祝福されたのです。そして、この日を聖なる日とされました。旧約聖書は、この日を安息日(サバット)と呼びますが、それは土曜日です。キリスト教会が日曜日を安息日と呼ぶ場合がありますが、それは誤りです。キリスト教では日曜日を「聖日」または「主の日」と呼びます。イエス様が復活した日を祝っているのです。
 ユダヤ教では安息日を厳格に守ります。「ユダヤ人が安息日を守ったのではない、安息日がユダヤ人を守ったのだ」と言う言葉があります。ユダヤ人はこの日には一切の仕事をしません。電気のスイッチを入れることも、カメラのシャッターを切ることさえ禁じられています。このような行き過ぎをイエス様は戒めておられます。6日働いて1日休むと言うのは人間の体にも良いリズムなのでしょう。人間は6日目に創造されました。6と言う数字は人間にとって基本的な数字のようです。昔は日本でも6進法が使われていました。家を作る基本となる単位の一間は六尺です。またヨーロッパでも長い間6進法が用いられていました。

2:4 これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、
2:5 地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。2:6 ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。


 「経緯」と言う言葉は5章でアダムの「系図」(口語訳、新共同訳)と訳されている言葉です。新改訳聖書は「歴史の記録」と訳していますが、これはひどい訳ですね。総じて新改訳聖書は分かりやすくしようとして、返って言葉本来の意味を失っているように思います。系図と言う以上、ここまでの文節の流れとは違って、改めて話をしようと言う意図が感じられます。極端な聖書解釈者はここからは別の資料が使われたのだと言いますが、そこまで考えなくてもと思います。
 地には木も草もなかった赤土の広がる荒涼たる土地でした。そして“雨は降らなかった”とあります。このことから、2日目の上の水と下の水に分けた時に、雨を降らせる雲はなかったことが分かります。やはり今のような天候とは大いに違っていたのです。霧が地上の湿気を保っていました。これは今でも世界の一部の地方では実際にあるようです。もっとも新共同訳は「水」、TEV(Today’s English Version)は「水」と訳されていますが、正しくは地下水のことのようです。KJVは「霧」です。

2:7 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 2:8 神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。 2:9 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。
                                                                 イラスト 渡辺百合
 「土地のちりで人を形造り」とありますが、新共同訳は「土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり」とあります。分かりやすいですね。塵と訳す場合と、土と訳す場合がありますが塵と言う場合は、人間が元々は塵に過ぎないものだと言うことが強調されているのでしょう。
「その鼻にいのちの息を吹き込まれた」。ヘブル語では息と霊は同じで“ルアッハ”と言います。神の息は聖霊なのでしょうか。そうすると人間は聖霊によって生きるものとなったことになります。しかし、わざわざ、「いのちの息」と書いてあるので、人間としての霊を吹き込まれたのでしょう。「生きもの」とは“ネフシュ”という言葉です、ユダヤ人に聞いてみないと分かりませんがかなり強い意味のようです。
 「東の方エデン」というのはイスラエルから見て東、すなわちメソポタミア地方、現在のイラクです。イラクには「ここにエデンがあった」と言う伝説の残る土地(エリドウなど)があります。そしてエデンとは「大いなる喜び」と言う意味です。(エドワード・ヤングのコンコーダンスによる) 人類の最初の家庭が「喜び」と言う場所から始まったのはすばらしいことですね。しかし、時々、悲しみの場所ともなります。実際、間もなく人類最初の家庭は大いなる悲劇の舞台となりエデン(喜び)を追われます。

2:10 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。 2:11 第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。 2:12 その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。 2:13 第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。 2:14 第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。

 この四つの川は、もともと一つの川だったとあります。この内、ヒデケルはイラクとイランの国境となっているチグリス川でユーフラテスはそのままユーフラテス川で共に実在する川です。そのことから、これは比喩や霊的な意味ではなく、本当にあった川だと考えられます。前に言ったように、大陸が一つであり、その後、五大陸に分かれたことから、あとの二つはどこにあるのか分かりません。書かれた当時でさえ分からなくなっていて説明が必要だったのです。ピションは「ハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった」と言う説明が必要でした。またギホンは「クシュの全土を巡って流れる」とありますが、クシュはエチオピアを指す言葉であることから、アフリカ大陸を意味するのでしょう。そうするとナイル川かもしれません。昔はエチオピアはイスラエルから見て、南の限界と考えられていました。

2:15 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

 
人間はエデンで何もしないで木の実を食べていたのではなく、「そこを耕させ、またそこを守らせた」とありますから、仕事をしていたのです。人間の最初の職業は農業でした。

2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」


 このささやかな言葉は、その後の人間の運命を決定する重大な意味を持っていました。神様はたった一つだけ、人間に禁止事項を与えました。「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」。ある注解書はこの木を「霊的にこれを理解すれば、いのちの木とは信仰の木であり、神を信じ、神を愛し、神に従う心構えの木であり、善悪の知識の木とは、自分の知恵で何が善で何が悪であるかをわきまえる道徳的判断の木である」と言っていますが、
適切な説明だと思います。この木の実をりんごと言うのは恐らくヨーロッパで一番身近な果物だったのでしょう。
 この“善悪を知る知識”のことをギリシャ語ではGnosis(グノーシス)と呼びます。「霊知」と訳されます。ヨーロッパの中世からこの言葉は特別な意味を持つようになりました。それは聖書で言う「奥義」に相当すると考えられた悪い意味で、占いや、悪霊による知識の意味です。ある人々は、自分たちは他の人々より深い奥義を知っていると自称しています。しかし、それはTテモテ4:7でパウロの言う“俗悪で愚にもつかない作り話”です。

「しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい。」

 この“知識”を一般化するために用いられているのがいわゆる“ファンタジー”です。その代表的なものは「指輪物語」「ナルニア国物語」「ハリー・ポッター」「不思議の国のアリス」「オズの魔法使い」などです。これらの現実離れのした奇怪な世界に気をつけてください。
 この様な人々は自分たちを “特別な啓示の光を得たもの”と言う意味でイルミナティと呼びます。あるコンピューター会社のマークがかじられたりんごなのはその意味です。
 それにしても、なぜ神様はこんな木を植えたのでしょうか。植えなければアダムとエバは取って食べることもなく、罪を犯さないで、永遠に神様と共に平安で満ち足りた生活を送ったでしょうに。それは「神は愛」だからです。神様は愛の対象として人間を創造されました。愛というものはお互いが全く対等でなければ成り立ちません。少しでも上下関係や強制があっては成り立たないのです。最近、このことが分からない人が多くなりました。男性が女性を閉じ込めて自分を愛せと言っても、そこには愛は生まれてきません。同じように女性が結婚してくれなければ死にますと言うのも愛ではないのです。愛とは「相手を拒否できる自由」があるときだけ成り立ちます。同様に、神様はこの善悪を知る知識の木によって人間が「神を拒否する自由」を与えました。愛というものの原則に従ったのです。
 そうすると「ええ!神と人が対等だと言うのですか?」と言われそうですね。そうです、愛という次元では神と人は対等です。神様は人間が自発的に自分を愛することを求められたのです。それが愛の原則だからです。神は愛なのですから。