メッセージ070128                  小 石  泉

イエスは神の子か


さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」マタイ16:13〜16

 神の子という名称は日本語では極めてあいまいです。英語の聖書の場合、創造主である神の子という場合には必ずSon of GodとSが大文字になっていて、他の場合と厳密に区別しています。他の場合というのは天使、人間を神の子と表現する場合、他の神々の子の場合です。創世記やヨブでは明らかに天使を神の子と言っている場面があります。そういう場合、必ずsons of godとなっていますから、間違えようがないのです。
 さて、口語訳聖書では、この箇所でペテロはイエス様の問いかけに答えて、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と言っています。それはこの場所がピリポ・カイザリヤだったことを考えると分かります。カイザリヤとはローマ皇帝(カイザル)に捧げられた都市の名前です。ここはヘロデ大王がローマ皇帝アウグストに捧げ、その子ピリポがティベリウスに捧げた都市でした。ここには皇帝を祭る廟があり、昔読んだ注解書によれば、そこには当時ローマ皇帝の称号であった「生ける神の子キリスト」と書かれていたということです。だからこそ、ペテロが「あなたこそ生ける神の子キリストです」と言ったのだという説明でした。残念ながら今は確認できないのですが、中々説得力のある説明です。
 さて、古今東西、多くの国々の王様は「神の子」と呼ばれてきました。たとえばエジプトのラメセスとは太陽神ラーの子、ラーが地上に現れたものという意味です。(ちなみにメセスはモーセス、すなわちモーセです。だから出エジプト記のモーセもその前に何かの神々の名前があったと思われます。しかし、モーセはそれを嫌って取ってしまったのではないかと思います。)また、日本の天皇も神の子という意味です。つい60年前までは現人神(あらひとがみ)と真面目に言われていたのです。ですから神の子とは父と子という親子関係の意味だけではなく、“神が地上に現れたもの”と言う意味があります。目に見える形で現れた神という意味です。
 ユダヤ人が神の子という場合、それは創造者なる神の顕現者という意味ですから、重大なことです。太陽や神々の子という場合とは比較になりません。それだから、イエス様が十字架につく前、大祭司の前で尋問を受けたことが重要なことになります。

そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。どう考えますか。」彼らは答えて、「彼は死刑に当たる。」と言った。マタイ26:62〜66

 「生ける神によって、あなたに命じます。その答えを言いなさい。」と大祭司が言うときは、正直に答えなければなりません。そこでイエス様は、そうだと答えました。それが神への冒涜であり死刑に値すると決定されました。つまり、イエス様の罪状の第一は自分を「全能者なる神の子」だと言ったからです。これは本当に途方もない言葉です。このようなことを言うのは、よほどの嘘つきか、気違いか、さもなければ、本当の場合です。当時の人々のことを考えてください、イエス様はまだキリストと認められていたわけではありません。ガリラヤの田舎者のたわごとと思われても仕方がありません。
 しかし、弟子たちは、もしかしたらこの方は本当のメシヤかもしれないと思ってついてきて、そして多くの奇跡や人格や御言葉に触れて「この方こそ生ける神の子キリスト」だと信じたのです。それでもユダのように信じることが出来ない弟子もいました。今でもユダヤ人の多くがイエス(ヨシュア)をメシヤである神の子とは認めていません。
 聖書の中で神ご自身が直接、言葉を出されたことはあまりありません。多くの場合、それは神の現れである御子か、天使を通して語られています。しかし、天地の創造のときと、イエス様の洗礼の時には明らかに神ご自身が親しく語られています。

こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」マタイ3:16〜17

 私はこの声はどんな声だったのだろうかと思います。神ご自身の声ってどんななのでしょう。厳かな、魂を揺すぶるものだったに違いありません。ここには父と子と御霊がはっきりと現れている珍しい箇所です。そして神様は御子を愛し喜んでおられると言っておられます。ここは父としての神の御性質が現れています。

百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった。」と言った。マタイ27:54

 次に、イエス様を神の子と認めたのはローマ軍の士官でした。異邦人であり、ユダヤの宗教には中立を保つべき立場の百人隊長(大尉に相当)が神の子と言っています。この場合、英語の聖書KJVではSon of Godという言葉が使われています。
 こうして、弟子たち、神ご自身、異邦人によってイエス様は神の子と言われましたが、驚くべきことに、悪霊にもそう言われているのです。

それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」マタイ8:28〜29

 悪霊たちはイエス様が神の御子であることを知っていました。実は、彼らはいつの日か御子によって裁きを受けることを知っていて、恐れおののいているのです。

悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。ルカ8:31

 変な話ですが、これこそ最もはっきりとイエスが御子であることを証明しています。何しろ敵に認められるのは最高の証明だからです。彼らは永遠の闇に閉じ込められる運命を恐れているのです。そして、それが神の御子イエスご自身に権限が与えられていることも知っているのです。
 今もユダヤ人たちはイエス様を神の子とは認めていません。しかし、いつの日かそれを認めるでしょう。

見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」黙示録1:7〜8

 「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者。アルファであり、オメガである方」それがイエス・キリストです。Αはギリシャ語の最初の文字であり、Ωは最後の言葉です。黙示録の最後にも「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」22:13 とあります。御子は神であり神の現われなのです。